落語大好き

アクセスカウンタ

zoom RSS 落語の中の言葉151「行倒れ」

<<   作成日時 : 2016/06/10 20:08   >>

ブログ気持玉 0 / トラックバック 0 / コメント 0

          五代目柳家小さん「粗忽長屋」より

 粗忽者が浅草観音へ詣った帰りに行倒れの人だかりに出会う。死骸を見て兄弟同様につきあっている隣の熊だと誤解し、当人を連れて死骸を引き取りに行くという、はなはだ落語的な咄である。
 行倒れの場所が雷門を出たところであれば、門前町屋であるから町奉行所支配であるが、咄では仁王門を出たところなので寺社奉行支配なのであろうか。その場合の手続きはよくわからないので町人が町奉行所支配地で行倒れた場合の手続きを紹介する。
 行き倒れ 宝永元年(一七〇四)十二月、南伝馬町二丁目と南鍛冶町との堺の下水へ、町人風の男が倒れこんで死亡しているのを、鍛治町辻番人が知らせてきた。このように二か町の辻や堺に行き倒れている場合、両方の名主が出張って調査をした。奉行所から検使があり、三日晒したが身元は判明せず、町の取り計らいで回向院下屋敷(小塚原)へ葬った。(片倉比佐子『大江戸八百八町と町名主』)

 少し補足すると、行倒れのあったところの町役人が町奉行所へ検使を願う。検死の結果事件性がないとわかると三日間の晒しを命ぜられる。三日晒しても身寄りの者が現れないとその旨を町奉行所へ届け、片付けるようにという指示を受けた上で、回向院へ一札を入れ供養料を払って切手をもらう。切手を添えて回向院下屋敷(小塚原御仕置場のとなり)へおくる。という流れである。身元がわかって遺体引取りを願う者が申し出た場合にも、勝手に引き渡すことはできない。その者の口書が作成され、奉行所からの指示があってはじめて引き渡しとなる。

 本所回向院は明暦三年1657の大火で非常に多くの死者が出て、その死骸を本所に大きな穴を掘って埋葬した際に建てられた寺である。
大田南畝は玉露叢を抄録している。
一焼死たる骸骨を乞食の両頭車善七、芝の松右衛門に仰せ付られて、船に積て牛島へ悉く取揚ゲ、其所にして町四方の寺地を下され台にて一宇建立の為金子三百両下行有て、かの死骸共を其寺の庭前に堀埋め、増上寺より所化の僧を住持にすへ、則チ号を無縁寺、院号を回向院と申けり。此寺へ運びける焼死人の員数十万七千四十六人と聞へたり。彼塚の上には、からかねにて大き成地蔵を安置せしめ、法界無縁塚と名付たり。哀なる哉。悲しひ哉、其死人の内には十宗八宗とにならめば((ママ))、各壱つ穴に埋めければ、其所の者ども毎月十八十九日には参詣せしめける程に、日に増し月に益りて今は古義の寺院にもおとらず見へけり。巻十四

 その後行倒れ等の身元不明者の遺体も埋葬することになったが、年を経て余地がなくなったため、回向院から願い出て小塚原御仕置場の地をもらいそこに埋葬することになった。そこに建てた庵を回向院下屋敷という。

刑罪場 千住街道中小名小塚原繩手の西脇にあり、間口六十間餘奥行三十間餘、本所回向院の持地なり、石像坐身の地蔵あり、高さ一丈又高一丈餘の題目の石碑あり、元禄十一年(1698)立る所なり、傍に高さ八尺の石地蔵あり、元文四年1739立る所、又文化中(1804-18)立る所の石仏阿弥陀の像及び稲荷社あり、万治年中(1658-61)町奉行渡邊大隅守村越長門守命を伝へ牢死若くは道路にて倒れし屍を回向院境内に葬埋せしむ、然るに年を追て隙地なけれは同院より願ひ上て寛文七年1667此刑場を持地に賜にり傍に庵を造立し、阿弥陀を置又非人の番屋を建つ、かの無縁屍を葬れり、仍て年毎に町奉行及寄場役所より回向料を同院に與ふと云、(『新編武蔵風土記稿』巻十九)


(貞享二年1685)丑十二月廿日
   樽屋藤左衛門殿町々名主江被申渡候趣
一町々ニ而行倒相果候者有之、御番所江御訴訟申上、御下知相済、死骸片付候節は、本所回向院之下屋敷、浅草御仕置場之近所ニ有之候間、右之所江遣シ可取置候、尤其町々名主判形之一札、回向院江遣し差図を請、下屋敷江遣候義ニ付、町々名主之判鑑、回向院江遣置可申旨被申渡候 (『江戸町触集成』第二巻)

 町々たおれ者、さらしの上回向院へ遣す。弔料壱貫文より安きは無之。町名主印鑑を以書状相添遣候へば切手出。其切手を持て回向院下屋敷へ遣也。江戸中名主の印鑑回向院にも有之。(『我衣』)


    一札の事
一、伊勢町市左衛門屋敷の前に、年頃四十四五歳相見申候男の非人倒れ、相果て申候に付、御月番大岡越前守様御番所へ御訴へ申上候処に、野非人紛無之に付、死骸片付候様に被仰付候。仍て貴院御下屋敷江遣し度存じ候。尤も総身に疵少しも無御座候。重て以箇様に六ヶ敷儀御座候共、貴院江御苦労相懸け申間敷候。証文仍如件。
                     伊勢町
  享保七年1722寅二月四日      月行司 新 七
                        五人組 五郎左衞門
                        名  主 勘 解 由
 回向院御納所
               (『伊勢町元享間記』)

 町奉行所からの検使の派遣は一般町人の行倒れの場合で、非人や無宿には派遣されず名主の改めだけで、奉行所から片付けが命ぜられたようである。

一行倒相果候ハヽ是迄之通検使可願出候
  但、無宿又は非人体之者は向後検使不及相願ニ、組合名主立合相改訴出、差図可請事
(天明七年1787)十二月七日 町年寄三人
           (『江戸町触集成』第八巻)


この町触は天明の飢饉で「行倒」や「浮死骸」が多かった時のものであるが、享保七年にも「野非人紛無之に付、死骸片付候様に被仰付候」とあって以前から無宿又は非人体之者には組合名主の改めだけで奉行所から片付けの指示が出されていたようである。

画像  平成十四年に行われた小塚原刑場跡地の一部の発掘調査によると、回向院下屋敷では棺桶には入れずそのまま埋葬したようである。
他の墓地と違う点は、人骨が、早桶などの棺には入っておらず、直に葬られ、累々と積み重なるように土中から見つかっていることです。中には、穴を掘ったところに何人かを一度に入れられたように見受けられる遺構もありました。いわばむき出しの骨の側から六道銭が出てきました。(『荒川ふるさと文化館だより』第23号」)

  六道銭は寛永通宝がほとんであるが、なかには珍しいものも混じっている。

  また、行倒れでも病人の場合には駕籠で奉行所へ連れて行き、奉行所から溜に送られたようである。

是迄江戸町中より行倒無宿病人、駕籠召連訴出、溜預申付候節、溜迄町方より乗来候駕籠ニ而送遣候心得ニ而、溜之ものより所之もの江相対ニ而借請候趣ニ而、損料等も相増可申義ニ付、此度両御役所共、溜迄之駕籠手当申付候間、以来無宿病人駕籠ニ而召連訴出候節、御役所迄之心得ニ而差出可申、尤御番所ニ而移替、所之駕籠ハ御番所限ニ而差戻候間、已来其旨可相心得、尤右之趣一統江不洩様、其方共より外年番名主共江可申通
右之通被仰渡奉畏候、尤右之趣町中一統江不洩様申通候様「年番名主共江私共より可申通旨」被仰渡奉畏候、仍如件
               
  寛政十一未年1799七月廿日   小口年番名主 
                        呉服町
                         三郎右衛門
                        左内町
                         六右衛門
                        新革屋町
                         定 次 郎
                        鎌倉町
                         平 次 郎
土佐守様御番所江昨廿日拙者共被召出、右之通御年番三好助右衛門殿御掛ニ而被仰渡、則御請証文被仰付候、尤月行事持場所江ハ其組合ニ而能々申聞候様、訳而被仰渡候間、呉々も御申聞置可被成候、此段御達申候、以上
  七月廿一日            年 番
(『江戸町触集成』第十巻)

 溜というのは、石井良助氏によるとはじめは「非人の作った囚人療養所」であった。
 溜(ため)には浅草(田圃)、品川(鈴ヶ森の近く)の両溜がある。浅草の溜は非人頭車善七、品川溜は非人頭松右衛門か預かっていたので、溜のことを非人溜とも呼んだ。主な機能は、囚人が重病になったとき一時加養のために預かること、十五歳未満の幼者が遠島刑に処せられたとき十五歳まで預かること、であった。
 その起こりは、いずれも貞享四年(一六八七)に、車善七および松右衛門がそれぞれ町奉行から囚人を預かったのに始まる。初めは行き倒れや無宿の者が主であったが、次第に吟味中の者も預かるようになり、預かり人の数もふえたので、車善七は元禄二年(一六八九)に幕府から九百坪余の土地を拝領して、自費で一之溜、二之溜。合計五十二坪および女溜を作った。同十三年(一七〇〇)には松右衛門が幕府から土地五百二十三坪を拝領して、自費で二間半に七間の総二階の一棟を建てた。ここに溜の制度は整った。
 幕末には品川に、間口十間奥行三間の檻倉ほか二棟の檻倉、浅草には大溜(間口八間奥行三間)、二の溜(間口五間奥行三間)、三の溜(間口四間奥行三間)および女溜(間口三間半奥行三間)があった。浅草溜には、安政五年(一八五八)に三百七十四人(うち女子二十六人)を収容していた。
 享保三年(一七一八)に、町奉行より若年寄有馬兵庫守へ差し出した覚書があるが、それによると、溜は長屋作りであって、総板敷に畳を敷き、内に竈もあり、夜中にはあり明(有明行灯、夜通しつけておく行灯)もところどころにある、昼夜ともに煮焼きができ、湯、茶、煙草、薬なども飲みたいときは心のままにくれるし、寒気のときは焚火にもあたれ、風呂にも幾度もはいれる、牢屋と違って格子一重ではればれとしており、吹貫であるから、悪い臭いもまったくなく綺麗で、囚人は庭へも出られる、だから、溜は牢内とは違って、格別囚人のためにはよく、病人などの養生には溜の方か至極よい、と記してある。
 そこで、ふつうの囚人を溜へ送ったのでは不都合と考えたのであろう、このとき、無宿、行倒れや病人はこれまでどおり溜に預けていいが、ふつうの囚人は溜に送ってはならない旨命令されでいる。
 このように、享保ごろの溜はなかなか衛生的だったようであるか、幕末嘉永ごろになると、品川大溜は南向きで、前通り一方のみ格子窓なので、臭気がはなはだしくこもり、極暑のおりは溜人どもは凌ぎがたいから、後の羽目通りにも窓二ヵ所明けたい旨、松右衛門から願い出ている。


 小石川養生所と同じく享保からしばらくの間はその開設目的にそった運営がなされていたが、次第に劣悪なものになっていったようである。
画像

テーマ

関連テーマ 一覧


月別リンク

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!
ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。
→ログインへ

コメント(0件)

内 容 ニックネーム/日時

コメントする help

ニックネーム
本 文
落語の中の言葉151「行倒れ」 落語大好き/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる