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zoom RSS 落語の中の言葉156「裏長屋4/4・惣後架」

<<   作成日時 : 2016/09/20 19:50   >>

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 今回は惣後架を採り上げる。 これもまた『守貞謾稿』から。
厠(かわや) 俗に雪隠と云ふ。京坂俗は、常に訛(なま)りて「せんち」と云ふもあり。婦女は「こうか」、あるひは手水場(ちようずば)と云ふなり。男も人前等には、てうづばと云ふなり。
 江戸にては、男女ともに常に「こうか」と云ふなり。また、てうづばとも云ふ。「せついん」と云ふは稀なり。
 長屋と号して一宇数戸の小民の借屋には、毎戸に厠を造らず、一、二戸を造りて数戸の兼用とするなり。これを京坂にては、惣雪隠と云ふ。江戸にては、惣がうかと云ふ。
 京坂、惣雪いんは皆勘略ぶき。周りおよび二戸なるは、半(なか)の隔てともに壁を用ひ、床ありて戸も全くに長し。江戸の惣かうかは、さん瓦ぶき、あるひはこけらぶき。周り羽目板壁、無床にて、戸も半戸なり。戸にひじつぼと云ふ鉄具を用ひず、細き一材を栽てこれを巡(めぐ)らし、戸をこれに打つ。図のごとし。また図のごとき一宇二戸の厠を二疋立と云ふ。一宇一戸を一疋立と云ふ。
 三都ともに毎戸にあるものは周りを壁にし、前に窓などを穿ち、ひばこと名付けて中央を穿ち、四方を板にす。惣厠には左右に板を架すのみ。屎を取るに、前方の板を上げ去りてこれを汲む。

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 江戸の惣後架の戸は下半分しかなかった。下の図は深川江戸資料館に再現されているものである。
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 よく知られているように江戸では肥は近在の農家が買いに来て、その代金は家守(大家)の収入となっていた。

   店中の尻で大家は餅をつき   誹風柳多留四五篇

 多くは肥船とか葛西船とか呼ばれる船で運んでいた。堀や川の近くなど陸上を運ぶ距離の短い所は値段がせり上げられたようである。値段引下げ運動が何回か起きている。寛政二年1790、天保十四年1843、文久四年1864(改元して元治元年)

 寛政二年三月に武州東葛西領ほか「三拾弐ケ領八百七拾四ケ村」から町奉行所に下掃除代金につき「右代金引下ケ候様、一統御触流被成候度旨奉願上候」と願い出ている(『江戸町触集成』第九巻)。願書によると延享寛延年中1744〜1751を目当に引下ケを望んでいる。奉行所は「右は相対之義ニ付御触流し之義は不容易筋」として熟談するよう町名主たちへ命じ、何度か名主たちに経過報告を求めている。この値下げ交渉は難航してほぼ終了したのは一年半後の寛政三年十月である。その理由は農民側は値下げのほかにせり上げしないよう掃除人を固定化することを望んでいるからであり、家主たちは地主からの給金のほかに下掃除代の収入も前提として勤めているうえに、自由に掃除人を替えられなくなることに反対していることにあった。結局値下げだけに終わったようである。
 寛政三年十月九日に名主から町奉行所へ提出した報告書によると、
  家主の数は凡壱万九千八百六拾八人
    内
  壱万四千三百四人  掃除代金壱両年已前より当時迄追々引下ケ対談相済候分
  三千九百九人     同代金是迄下直ニ付前々之通対談相済候分
  百拾弐人        同代金銘々地主掃除人と前々より直相対ニ而家主差構不申候
                  但右地主御支配違ニ付否相知不申候
  千三百六拾五人   同無代ニ而親類等江差遣、又は品替其外手前菜園肥ニ相用候分
  百三拾八人      ふり掃除人江其節之直段相対ニ掃除為致候分
  四拾人         当時明地ニ而掃除いたし候もの無之分
 江戸の家主の数が19、868だったことがわかる。
 どれ程値下げしたかは『江戸町触集成』には書かれていない。大石慎三郎『江戸時代』には
 幕府は下肥の汲取り値段は本来相対値段であるべきだからと、当事者どうしが相互に話しあうよう行政指導をし、その結果当時の一ヵ年の汲取り代金総額が二万五三九八両余であったのを一割四分五厘値引きして二万一七一五両として結着している。かりに一両を今日の価格に近づけて五万円として計算してみると、江戸市民は年間約一二億六九九〇万円相当の肥料(下肥)を製造していたことになる(値下げ前)。
と書かれている。一両を五万円とすることには同意できかねるが、ここでは省略する。

 また同書には
 この下肥の汲取りのため大坂では明暦・万治ころ(明暦元年は一六五五年)すでに町方下屎仲間(下肥仲買人組合)ができているが、江戸の場合もほぼこれと前後して下肥の流通体系が整ってきたとしてよいであろう。下肥にも仲買・問屋をとおして農民の手元に、という主要商品なみの流通経路があったのである。
ともある。家主のうち138人が売り渡している「ふり掃除人」といのはこの流通経路であろうか。
 翌寛政四年には町人の下肥商売は禁止されている。
町人之内ニも下肥商売致候者有之趣相聞候、江戸内ニ右商売致候者有之候而は、在方ニおゐて差支候義も有之候間、以来差止候、当年中余業ニ替候様可致候
右之通不洩様可触知者也
  子六月
右之通従町御奉行所被仰渡候間、町中不残早々可相候、已上
  (寛政四年)六月十七日   (『江戸町触集成』第九巻)

 町人の下肥商売が禁止されたのは町方に限られていたようである。大名旗本屋敷についても農民が買い取っているが、それは一部だったらしい。水野家(水野忠邦)では仲買人に売り渡しているという。天保一四年の引き下げについて、同じく大石慎三郎『江戸時代』には、
 このような大規模な値下げ運動はいま一度天保段階におきている。水野忠邦は天保一四年に有名な天保改革にのりだすが、改革の最重点は生活物資の値段を引下げて、江戸市民の生活を安定させることであった。(中略)
 そのなかの一つとして、江戸市民に日々の野菜を供給する江戸近郊農村に、野菜値段の引下げを命じている。ところが農民側もさるもの、江戸の町から下肥を買っている武蔵・下総両国二八三ヵ村の村々から、「野菜の引下げに応じてもよいが、そのかわり野菜値段のなかで重要な部分を占める下肥代金の引下げをしてほしい、そうすればその割合だけ野菜を安くしましょう」と返事をしている。物価引下げ問題はついに便所にまではねかえってきたわけである。
 この問題は結局下肥汲取り料を一割値引くことで一件落着するのだが、このことが自ら江戸屋敷の下肥販売者でもあった天保改革の最高指導者水野忠邦のさいふにどう影響をおよぼしたかみてみよう。
 天保段階水野家では、今日の品川区内にある中延村の下肥仲買人鏑本家に独占汲取り権をあたえている。前述の″下肥値下げ一件″が落着するのが天保一四年二月のことであるので、その前年天保一三年の鏑木家の仕入帳を調べてみると、この年水野家は下肥仲買人鏑本家から六六両二朱の下肥代金を受け取っている。したがって忠邦は自らだした物価引下げ令によって、六・六両余の収入減となったわけである。

 とある。
 天保十四年の際の農民側は最初「人別壱人ニ付、銀弐匁宛」として掛合ったがまとまらず、「去々丑年壱ヶ年分下掃除代金三万五千四百九拾両余之処、今般右壱割引下ヶ、其余格別高直之場所は不同無之様」と要求水準を引き下げている。

江戸の下肥の総額は文久二戌年1862には49、500両余になっている。幕末の混乱による物価騰貴のためであろう。文久四子年1864の「武州葛飾郡二合半領須賀村外七十九ケ村、幷下総国葛飾郡小金領須和田村」から出された願書では「去々戌年壱ヶ年分下掃除代金、四万九千五百両余之処一割下ヶ」を願い出ている。(『江戸町触集成』第十八巻)

 下掃除代金は金ではなく農産物の場合もある。曲亭馬琴の日記によると馬琴は下掃除代金として干大根三百本を受け取っている。
天保二年十一月十日の条
一、下そうぢ伊左衛門、定のごとく干大根三百本、昼前持参、納之。支度代四十八文、如例遣之。
 食事をさせる事になっていたらしい。この日は食事代を与えている。ちなみに翌日十一日の条には
一、沢庵漬三樽内、一番座食六十本、ぬか三升・塩一升入合、弐番百本、ぬか五升・塩四升、三番、ぬか三升・塩六升五合、右三樽、おみち・お百両人にて漬畢。残り四十本は、ぬかみそへ入。
とある。当時の馬琴家は、妻(百)・息子(宗伯)・嫁(路)・孫(太郎数え年四歳・次二歳)・下女である。

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