落語大好き

アクセスカウンタ

zoom RSS 落語の中の言葉158「手習」

<<   作成日時 : 2016/10/31 20:28   >>

ブログ気持玉 0 / トラックバック 0 / コメント 0

        六代目三遊亭円生「佐々木政談」より

 佐々木信濃守が田舎侍の姿で市中見廻りをしていると、手習の帰りとみえて子どもが大勢出て来て、御奉行ごっこを始める。今回のテーマは手習である。落語にはあまり手習の場面は出てこないが、字の読めない人間はよく登場する。一方で江戸の町民の識字率はかなり高かったとも云う。ただこれは確証がないまま一人歩きしているらしい。以下『江戸町方の制度』から江戸の手習所についていくつかの点を採り上げてみたい。出典を示さない引用は『江戸町方の制度』からである。
寺子屋とは幕府時代の小学校なり。その称は、僧侶が子弟を寺に集めたるより始まりしとぞ。さて江戸市内に寺子屋幾何なるやは知らず、大抵九百家は有りしとなり。その他懇親の者の児童を集め、師家の観をなせし者は枚挙に遑あらず。

画像  石川松太郎『藩校と寺子屋』には「明治十六年(一八八三)に、文部省が全国にわたって寺子屋の遺跡を調査した結果を収める『日本教育史資料』」から「毎年平均開業数を算出して年代別にしてみると、左表のようになる。」として左の表が載せられている。
  この調査には洩れた地域が多くある上に、調査の精粗の差も大きいというが、おおそよの傾向は知られる。全国ベースで見たときには天明期と文政期に増加し、天保期以降さらに激増している。
  江戸・大坂などの大都市ではもっと早くから普及したようである。寛政四年1792の『江府風俗志』によると、以前は手習所への入門はかなり手重で手習師匠への謝礼も分限により違っているものの高額であった。そのため手習へ通う者も少なく、字の読めない者が多かった。それが延享末宝暦(1751-64)頃から謝礼等が甚だ安くなり無筆が稀になったという。
子供手習寺上りは、赤飯煮〆酒肴目録、(或は百疋、身分相応金銀一二両、)子供は麻上下親羽折袴にて、一番弟子より次第して、羽折袴羽折計(ばかり)にて、是も身分相応に衣服改て座に付、件赤飯各々面々菓子盆にて出て盃廻し、尤師匠始め寺入の上り子に遣し、又師より一番弟子へ盃遣し、夫より上り子にさし返盃にて、段々弟子不 残盃廻り、小謡三番納には高砂にて済、女子も此日は衣服改手間休、知人(ちかづき)に成事なり、今より見れば甚正しき事也、夫故に至て軽き者の子供は、寺入おつくうにてなりがたき故、無筆多く有し事也、就中職人は無筆不算にて有し事也、然るに延享末宝暦頃より、手習師匠甚下れつに成、何様成者にても謝礼甚軽く、蒸物酒肴抔も不 入、弟子入其身其儘にて礼式等も無く、甚心安く済事にて、大安売の師諸々に多く成し故、何様の軽き者の子供も、寺入成安く成し故、今は無筆は稀也、是は甚能事也、女子は猶更無筆多かりし事也、
 
 また『飛鳥川』(文化七年1810柴村盛方著)序文には
「予老年におよび、享保よりの事を考るに、風俗のかはりたる数をしらず。あまり風土の違ひし事思ひ出しあらましをしるす。享保半までは昔の形も少は残りしが、宝暦に及び、凡三四十年以来風体変化す。文化になりては猶更おもしろい事、おかしい事、其外云もさら也。(以下略)」
とあり、本文中には次のように書かれている。
昔手習の町師匠も少く、数へる程ならではなし。今は一町に二三人づゝも在り、子供への教へ方あるか。幼少にても見事に書也。
 
  どうやら江戸の手習所は宝暦頃から急増したようで文化の頃には一町に二三人づゝもあったらしい。
  上方では「寺子屋」と呼ぶが江戸では「手習」と呼ぶ。菊池貴一郎『絵本江戸風俗往来』には「この師を以前は寺小屋といいしよしなるが、今は手習師匠様と称したり」とある。江戸でも古くは「寺子屋」と呼んだのかどうか、史料は見ていない。享保七年に江戸町中の手習師匠の数を調べているが、そこでは「手習師匠」と呼んでいる。
(享保七年1722)寅六月八日
   奈良屋ニ而町中名主江被申渡
一町々ニ有之候手習師匠何町誰店誰、浪人ニ候ハヽ何之誰幷弟子何拾人有之段、今日中有無書付差出候様被申渡候

 同月廿二日
一今日奈良屋江左之手習師匠六人被呼、六諭衍儀之書物、弟子共江指南可申旨、中山出雲守様被仰渡候段、被申渡、六諭衍儀壱冊宛被下候
 本石町壱町目 馬場春水  同弐町目 石川勘助
 伊勢町  荒木蓉水   瀬戸物町 成瀬弥市郎
 通弐町目 星合伊織   常盤町  豊島善次郎 (『江戸町触集成』第四巻)

  この調査は松平薩摩守吉貴から献上された程順則の六諭衍義を吉宗が荻生徂徠に訳させ、さらに室鳩巣に和解させた六諭和解を手習のテキストとして与えたことに関連したものと思われる。このことを載せた「有徳院殿御実紀附録巻十」には、江戸の手習師匠の数は「八百人にあまれり」と書かれている。手習師匠八百人は一町当たり何人程になるかは別に考えたい。

  江戸の終わり頃の手習所の様子はつぎのようであったという。
一、入門の年齢と時期はともに定まってはいなかった。
昔日児童の入門は初午の日を吉日として、弟子入りをなす。弟子入りのときは師その児童の手を取り、天一天上と書かしめ、これを保存して寺入の記念としき。
 入学の年齢に定めなし。早きは五歳なれど、普通のものは八、九歳よりするが多し。退学は男子十二、三歳女子は十四、五歳を限りとし、就学年間は概して五ヶ年が程と知るべし。
 入学の節は、机、硯箱等の新調を要し、入門の節は、一般の生徒に親睦と称し煎餅を配りぬ。ただし上等の子女は「最中」を配るを府下一般の習はしなりしといふ。序にいふ、器具新調の値段、安政年間には机硯箱の代二百五十文より二百七十二文、筆一本四文、墨一挺十二文、半紙一帖八文より十二文、煎餅百人分四百文、「最中」なれば一朱が通例なりき。

  身にあまる恩は七つのとしに受  誹風柳多留九篇
  初午の日から踏まれぬ影が出来 誹風柳多留四五篇

 『絵本江戸風俗往来』には「子供齢六歳の年、六月六日をもって師に就かしむれば万端の障りを受けずとて、今日師弟の縁を結ぶもの多し」とある。

二、始業終業時刻
さて生徒始業時限は、朝五ッ時より昼八ッ時までにて、この時間中は衆生徒机に憑(よ)り、容易に席を離るゝを許さず。もし要用ありて席を去らんとする時は、師若くは当番(生徒中師の手代を勤むる者)の許るしを得て席を離るゝ規則にて、これは各家とも同じ定めなりき。

出席帳は当番これを取扱ひ、出席順に記入したり。また当番は教場入口に座を占め、生徒昇降の礼儀に注意したり。出校の時は「お早う、只今」と一礼す、退散の時は帳面に記入せり名前即ち出席順に呼び出し、一人づつ徐(しずか)に退出せしむ。これをお呼び出しと云ふ。お呼び出しは、「誰さんお帰り」と呼ぶ故に、雑沓の憂なし。

   実際には出席する時刻はまちまちだったようである。次ぎに触れるように「一斉授業」ではないので同じ時刻に集合しなければならない訳ではない。また職業によって親の生活時間は別々であり、子どもは親の生活にしたがっていたからであろう。
  さらに昼八ッ時の終業時刻まで全員が在席したわけではなかった。『藩校と寺子屋』は『維新前東京市私立小学校教育法及維持法取調書』から次の文を引用している。午後になると、
生徒ノ出席、ソノ二三割を減少スルハ殆ンド常ニシテ、甚ダシキハ過半減少スルニ至ル、間々少カラザリシト。

  親の家業の手伝や別の習い事をするためもあったのであろう。

三、手習の内容は地区により、また子どもによって違っていた。
山の手は
士族の輩この地に多く住居しければ、師は士族の養成に意を用ひ、たとヘば手本に商買往来は適当ならずとして千字文、唐詩を与へ、書風は当時御家流を学ぶ者すこぶる多く、稀に唐様を珍重せし族(やから)もありき。また算術のごときは学ぶ者多からず

下町は
この土地は町人即ち商工の徒多きか故に、師匠は概して商工人の養成を企図せり。その一例を挙ぐれば、手本は商買往来を必要として、職工の徒には番匠往来を授け、随て算術を学ぶ者の多かりしは勿論なりとす

  勿論男女は別である。
たとへば男子は「いろは」より数字に移り、一より十、百千万億の文字を教へ、それより名頭、苗字尽し、請取文、送り状、江戸方角、手紙の文、商買往来、消息往来、証文店請状、庭訓往来、千字文とを習はしめぬ。また女子はいろは、数字、口上文。文の文、仮名交り名頭国尽し、女江戸方角、女消息往来、商買往来、庭訓往来、いづれも仮名交り等なるべし。
 習字の外、志願ある者には句読を授く。科書は実語教、童子教、古状揃、三字経、四書、五経、進んでは文選等なり。(中略)
女子は百人一首、女今川、女大学、女庭訓往来などの類と知るべし。

画像 手習は単文字から熟語・語句、単文、文章へ進む。手習の基本は実用にあったから商人の子どもと職人の子どもとではテキストも別である。習う文例には借金証文や離縁状もあったという。当時のテキストである商売往来はかつて紹介しているので今回は「女今川操鑑」(天保十五年1844)の最初のページをあげる。
    今川になぞらへて
    自らをいましむる
    制詞の条々
  一常の心ざしかたましく
    女の道明かならざる事

四、学び方は師匠から与えられた手本をひたすら手習することにあった。
師は生徒の前に坐し、往々文字を倒さまに書きたりしが、その書き振り中々熟達にして、一時に十人ないし五、六人を教授したるもありき。

 生徒の席は男女を区別し、男座、女座と称せり。

  師匠は数人を前に並べて書かせ指導したようである。清書して師匠の手直しを受け、師匠がよしとすれば次の手本を与えられる。あくまで自習である。子どもによって上達に遅速があっても当然の事とされたようである。勿論「男女七歳にして席を同じゅうせず」という言葉通り男女の席は別である。

   師匠さまかしくと以上別に置   誹風柳多留四篇
       女の文は「かしく」で終わることが多く、
       男の文には「以上」がよく使われた。

  読みを習うテキストも一人一人別である。年齢も入門時期もまた上達の早さも違うのであるから同じ物の同じ個所を全員で声を揃えて読むことなどあり得ない。町の手習所ではないが、水戸藩の下級武士が教える塾の様子をその孫娘が母親から聞いた話として次のように書いている。

お塾の方ではだんだんに集まってきた何十人の子供が、声をはりあげて、ある者は『論語』を、ある者は『孝経』を、それぞれ年と学力に応じて、いま自分の習っている所の素読をやっていますから、その賑やかなこと。(山川菊栄『武家の女性』)


  手習所の様子を描いた絵がある。両者ではだいぶ雰囲気が違う。場所による違いなのか、時代による違いなのか。左の絵は作者・年代とも不明。右は鍬形寫ヨ(一八二四年歿)の『職人尽絵詞』の一部である。机の並びも一定していない。面白いのは両方に罰を受けている子どもが描かれていることである。二人とも右手に水の入った容器を持ち、左手に線香を持っている。線香が燃え尽きるまで立たされていたようである。
画像

この子弟を罰するに叱責、起立(教場の隅に立たしめ、あるひは机の上に坐せしむるをいふ)拘留(留ると唱へ衆生徒退散の後、一時半あるひは二時間留置きて習字せしむ)、あるひは鞭笞(べんち)束縛もあり、鞭笞は厚紙に扇を畳みたるを裹(つつ)みたるものにて、これを身に加ふるにその音大なれども、さまでに疼痛を感ぜざるやうに製りたり。

  『江戸町方の制度』には「寺子屋とは幕府時代の小学校なり」とあるが、これは間違いである。両者は初等教育の場であることは同じであるが、根本的に性格が違う。小学校は「学ぶための場」というよりは「教えるための場」である。同じ年齢の子供を同じ時期に同じ場所に集め同じ内容を教える。最も効率的であり、教える側にとっても都合が良い。一方手習所は何十人も集まって一緒に習うが、年齢も入門時期も習う内容も区々である。全くの個人指導である。指導を受けるがひたすら自習するのである。「習うための場」・「学ぶための場」である。それは机の配置に象徴される。

  ところで平仮名の「いろは」から習い始めるというが、そのいろはは現在のものとは文字が違っている。ほぼ同じ字形のものもあるが、多くは全く別である。平仮名は万葉仮名に使われた漢字の草書体から作られたが、もとになる漢字(字母漢字)は一つではない。したがって現在の「い」にあたる文字も複数ある。現在のように一種類に統一されたのは明治の後半からのようである。さらに同じ字母漢字から作られた平仮名も書き様はさまざまである。「女今川」の最初の行にある平仮名「になぞらへて」について、よく使われるものとして『入門近世文書字典』に載っているものをあげると次の通り。
画像

  同じ文字もわざと別の書き方をするのが一般的だったようで「な」は「ぞらへて」と「明からざる」では変えてある。
  また漢字は幕府が御家流(行書体や草書体にあたる)を採用していたため幕府から出されるものも、幕府へ出すものもすべて御家流でなければならなかった。したがって出版物も含め多くが御家流である。実用を基本とする手習所で学ぶのもほとんど御家流である。楷書は特別に書家について習った者しか読み書きが出来ない。現在の我々が楷書しか知らず、草書や行書を読み書きできないのと一緒である。御家流といっても書き様はさまざまで楷書に近いものから全く違うものまである。例にあげた女今川にある文字のうち「今・川・心・道・事」を同じく『入門近世文書字典』からあげる。
画像

  江戸の手習へ通う子ども達が習ったのはこれらの文字である。

テーマ

関連テーマ 一覧


月別リンク

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!
ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。
→ログインへ

コメント(0件)

内 容 ニックネーム/日時

コメントする help

ニックネーム
本 文
落語の中の言葉158「手習」 落語大好き/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる