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zoom RSS 落語の中の言葉159「使者」

<<   作成日時 : 2016/11/20 21:16   >>

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       五代目柳家小さん「粗忽の使者」より

 落語に武家の使者が出て来るのは珍しい。今回は武家の使者についてその心得を述べたものがあるので紹介する。その名も『使奏心得之事』。使は使者、奏は奏者つまり使者に対面し口上を聞き、主人へ取り次ぐ者。

 まずは使者の基本的心得について。奏者は使者の言葉を正確に主人へ伝えることが重要であるが、使者にとって肝要なのは、口上の「意趣」であって言葉ではない。言葉は相手によって変えるべきものだという。

夫(それ)使の覚悟すべきは、其意趣を肝要と弁へ、勤労いたすべし、御口上等も始終御詞を違べし、申承んとすれば、兼而要語宜く成事多し、先他境へ趣する以前に、彼方と此方の対位を以て、真行草の序を分別し、それぞれに応じて恭敬尊節有べし、思慮の第一は諸人に気をとられず、胆は大に、心は少さに、敬を厚し、己が理発を顕さず、云事多からず、辞を安定にせよ、四方へ使して君命を恥しめざるを宜使の行跡と云也、使奏ともに寄付に騒しき程見苦しきはあらじ、さればとておちつき過たるは、いとゞ事よふにしてさら也、専過不及なきやふにと可 心得 なり、(以下略)

口上に対位を考へ、真行草を分別するといふ事は、此方より先様の重き時は、御家老中迄江之口上也、是第一也、其次申上まする、其次は申入まする、申しんじまする、其次は申越まする、申しまするなどゝ有べし、(以下略)

 次ぎに具体的には、相手の屋敷に着いたら必ず門番に何某の屋敷である事を確かめるべきであるという。

慥に覚たる屋敷にても、門番にて何之某様にて候哉と承る事のよし、やしき替抔有之しを不知、かるはづみに玄関へしかけ、相違したる時は、若き者なぞは別而あしき也、扨又病気見廻の使者、悔使者、悦使者ともに、門番所にて承り繕ひ、相勤たるがよし、(以下略)

  なぜかというと武家屋敷には門札などは出ていないからである。

 大名屋敷で今一つ事実と相違するものに門札がある。時代劇では町道場の看板のように、何々藩上屋敷などという大きな門札をかけるが、大名屋敷はそんなものはいっさいかけなかった。だから松平のように同じ名前がたくさんある大名は、屋敷の区別がつかず不便をきわめたらしい。大名だけではない、旗本だってかけなかった。その下の御家人でも同様である。とにかく武家は表札を出さなかった。奉行所にしたって「南町奉行所」などという門札は出さない。南とか北とかいうのは便宜上一般で言いだした呼称である。(林美一『時代風俗考証事典』)

  したがって目指す屋敷である事の確認を怠ると時としてとんだお門違いが起こる。

此頃青山家の人より松豆州の屋舗へ嫁入の者、南の町奉行屋舗へ輿入。折しも奥へ約束の女客来る筈なれば、門番も其心にて子細なく通し、奥の口へ入て門違の事顕れ、驚て引返しける。(以下略)(『道聴塗説』第三編 文政八・九年)

 武家では、江戸も後期になると正式の輿入れをせず、単なる「引き移り」で済ませしまう者もあったという。武家の婚姻は大名であれば幕府へ、旗本であれば上司へ願い出て許可の申し渡しがあった時点で成立する。町方のように婚礼などは婚姻の成立条件にはなっていない。なかには妾ということにして引き取り、後に嫁取りの願いを出して許可を受け、正式の輿入れ婚礼を行わないケースもあったようである。費用を省くためである。
 この場合も、単なる訪問と同様の供人数だったのであろう。嫁入り行列であれば門番のところで気付くはずである。

 次ぎに玄関から上がるときである。

古往は惣而玄関といふ事もなきよし、故に玄関前にて刀を抜、供のものに為持不置、当時は玄関あるゆへに、下座敷へ上る時、必刀をぬき持せ置事、法となれり、むかしは縁にて有しよし、外との縁へ上る時に刀をぬき持上り、内縁の障子際に差置て、座敷へ入たるよしなり、都而貴家へ入る法は、門前にて鎗を残し、殿へ上る時は刀をのこし、御座へ出る時に扇を残し、御対座の時は体を臥し欠(ママ)か、御側近く参る時は脇差をとる、如 此段々貴公の御前へ被召時は、要具を省く事、礼の甚厚所也、

 いよいよ使者の間へ通り口上を述べる。

静にあゆみ行、使者の間の程を考へあひ、使者等も有之哉、又出入の人など著座あるやなどゝ心を付、見計ひ、奏者の誘引に任すべきなり、畳ざわりのあらきは、はしたなくみゆれば、心を付べき事也、疾と著座して、ちよとゑもんを刷ひ、扇をぬき、奏者へ目遣し、両手を突候て、勿勢静に文(あや)のよし、聞ゆる様に口上可 申、両添の習にて、三段九品の礼をほどこし、奏者の右手の指先を、左の目にて守り申語るべし、(中略)

口上申時、何の何かし様何野何某と申候と申かゝる也、何某様と計申、或は何某様も不申、手前のみ人の名字名計申事、略儀にして又間違も有 之事也、況□手前の主人の名計申事有まじき事也、下司等取違ざるやうに、とくと心をしづめ申べし、上調子にては下司など取違ふる事有、人の笑となる事ゆへ心懸たるがよし、宮内少輔などの下司を、少ゆふと覚たる大も有り、ひが事也、せうふと申べし、主膳正をしやうと覚たるも悪し、主膳のかみなり、(中略)大輔、大夫、亮、佐、守、頭、正、務、尉.少輔などの下司、能々修学有るべきなり、(中略)

 ついでに刀の扱いについて紹介する。

遠山の金さん(遠山景元)の父である遠山景晋の日記では、景晋が初めて長崎奉行として長崎へ赴く途中、長崎街道の山家宿本陣に着いた時、福岡藩主黒田備前守が待ち受けている場所へ出掛け面会するところに次のように書かれている。

文化九年九月二日
服紗袷麻上下着用、供旅服ニ而備前守茶屋江罷越候、白洲ニ用人二人、敷台ニ家老壱人出迎候、玄関上り候処、玄関より取付之間ニ刀持居候間刀渡シ、同間ニ備前守出迎、自分見懸ケ下ニ居会釈有之候間、下ニ居致時宜、直ニ備前守案内ニ而座敷江通り、入頬ニ刀掛ケ居へ有之候を後ニ致シ着座(刀ハ家来刀懸江懸候)、備前守対座より少シ下り着座、御機嫌伺口上有之、

  挨拶済んで備前守は退席し、酒肴の接待のあと

干菓子・薄茶出、又烟艸盆出、備前守出席、吸物・酒・菓子馳走之礼幷領分中日々尋之礼等申述、直ニ退散、備前守出迎之所迄送有之、其後刀取退散、家老・用人初之通送り候、本陣江帰候後挨拶使者有之、相応ニ答申遣候、

  玄関につづく下座敷に居た備前守の家来に刀を渡し、案内されて座敷に行き、置かれていた刀懸けを背にして着座すると備前守の家来が刀を刀懸けに懸けた。そして帰りも、来た時刀を渡した場所で受け取っている。これが旗本等が訪問した時の刀の扱いのようである。

 幕末の水戸藩の下級武士の場合では、
お客は次の間で大刀をとってそこにおき、脇差だけで座敷に通ります。主人が、
 「おかたな上げ」
と声をかけると、家の者(引用者註:奥さんや娘、下級武士で士の家来がいないため)が出て来て、ふくさ代りに左右の袂で捧げるようにして刀を持ち、お客のうしろへ、鍔を左にしてそっとおきます。そんな時、刀は素手ではもたないのが作法でした。(山川菊栄『武家の女性』)

  また腰から抜いた刀は右手で持つことになっていたという。

武士は常識として、人まえでは大刀を右手に下げる。左手だとなぜいけないかというと、いつでも抜打ちにできる体勢だから相手に殺意を抱いていると解釈され、非礼に当るからなのである。ところが最近のテレビ時代劇は、いかにこの左持ちが多いことか。同輩の間はもとより、上役や主君の前にまで刀を左に持ってでるのが普通みたいになっている。もっとも、殿様が家臣に対したりするときはこの逆で、原則として左側に、小姓が佩刀を捧げて侍する。殿様は家臣に対して非礼の配慮をする必要はないから、危険に際してすぐ殿に佩刀を手渡せるようにとの配慮からである。(林美一『時代風俗考証事典』)

 また刀を刀懸けに置くとき柄を左右どちらにするかは決まっていなかったようである。

 では刀を刀掛におくときは。柄(つか)がどちらにくるのが正しいか? これは右に来るのが正しい(すぐ左手にとって抜けるから)という人があるが、実は剣道の研究家に聞いても一向はっきりしない。しかし私は左に柄がくるのが正しいと思う。というのは前述のように右手に大刀を下げるのが常識とすると、そのまま刀掛におけば。当然のことに柄が左になるからである。またそのようなことは別としても刀は腰にさした場合、鞘の外側に当るほう(差表という)に、下緒(さげお)を通すための栗形(下緒通し)や、笄をさす場所(笄櫃という)が作られている。(小柄は差裏の小柄櫃にさす)柄を右にして刀掛におくと、差表が裏側になってしまうから、理屈から言ってそういう掛け方はしないはずである。現に刀剣商の店では必ず柄を左にして飾っている。
 ただしこれも持ち主の好みの問題だし、左利きの人だってあるのだから、柄を右にして置く人もあるし、特に幕末の志士のように、常に身の危険を感じている人は、すぐ左手の届く場所に、柄を右にして掛けておくほうが便利だから、そういう例が多いのではないかと思う。私はそういう解釈で、ドラマの内容に合せて刀を刀掛に置いてもらうようにしている。事実、江戸時代の絵画を見ても。柄を左に掛けている例のほうが右のものより断然多い。ただし道場の壁に竹刀を掛ける時などは、この逆が多い。これは初めから試合をすることが、わかっているからであろうか?こういうことは文献をさがしても、記録したものがなく、小道具係が先輩から教えられたままを理由もわからず伝承している場合が多い。疑問を持って調べだすと、些細なことほどわからないものが出てくるのが時代劇である。(同書)

  そして天保十二年(1841)刊『種彦諸国物語』の柄を左にしてかけている図をあげ、「作者柳亭種彦は公儀の旗本であり、彼の下絵をもとに浮世絵師が描いた挿絵であるから、充分信じてよいものであろう。」と述べている。その図と柄を右にしている図を揚げる。下の図は山東京伝『指面草』天明六年刊にあるもの。
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