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zoom RSS 落語の中の言葉164「湯屋・上」

<<   作成日時 : 2017/03/20 21:10   >>

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 今回は江戸の湯屋をとりあげる。江戸の銭湯は時代により大きく変わっている。一口に言えば蒸気浴から温湯浴へである。いつ頃から温湯浴に変わったのかははっきりしない。同じ温湯浴の湯屋でも江戸後期と幕末とでは違っているようであるが、絵が豊富なところから山東京伝の『賢愚湊銭湯新話(けんぐいりごみせんとうしんわ)』享和二年1802を中心に紹介する。ただ、『賢愚湊銭湯新話』には湯屋全体の平面図がないため、幕末の『守貞謾稿』巻之二十五のもの(上)と日本橋呉服町にあった湯屋の権利書付随の図面(弘化三年1845頃)の一つ(部分)(『大江戸八百八町』)(下)を先ずあげる。『賢愚湊銭湯新話』のものとはいろいろ違いもあるが、脱衣場である「板間」、体を洗う「流し」、湯船のある「浴室」の三つに分かれていることは同じである。
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 『守貞謾稿』は左側の大きな図について「表戸口、男女戸口を別けず一戸をもつて兼ぬるものなり。稀にこれあることにて、多くは戸口を異にするなり。」として右側の小さな図を揚げている。また戸口は男女別でも高座は一つであるが、別の所で「また三都とも、夜は高坐のみにては衣服の出入を監(みは)ること難きをもつて、板間に一人副監を置く。」と述べている。
 『大江戸八百八町』の図(下)は、中央の番台のほかに男湯女湯のそれぞれに小さな番台がある。どう使い分けたのかはわからない。

 まずは湯番のいる「高坐」(番台)から。
下図は 『賢愚湊銭湯新話』にある図。以下特にことわらないのは同書の図
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『賢愚湊銭湯新話』および式亭三馬の『浮世風呂』では男湯、女湯のそれぞれに番台がある。
湯番は湯銭を受け取るほか、履き物や板の間の着物に気を付けた。したがって客が混み合ってくると『守貞謾稿』のように一人で男湯女湯の両方を監視するのは難しいであろう。
 *賓頭盧尊者
賓頭盧尊者と湯屋の湯番は高き所に上りゐてその形よく似たり(中略)
然れども湯番はもとが凡夫なれば、をりをり居眠をして出入の人に草履をはきちがへさせ、帯をまちがへさせることなどもあれど、(以下略、原文はほとんど仮名書き)

 高座にいる湯番の形が似ているとされる鬢頭盧尊者は、湯屋と関わりが深い。『三宝絵詞』下巻(永観二年984成立)には次のように書かれている。
寺に月ごとの十四日、二十九日におほきに湯を沸かしてあまねく僧に浴むす。その明くる日に布薩を行ふによりてなり。また人の志にて日をも定めずして沸かすこと多かり。(中略)
 註:布薩 仏教教団で、半月ごとに集まって戒律の条文を読みあげ、互いに自己の罪過を懺 悔する儀式(『広辞苑』)
 また経(温室洗浴衆僧経)に云はく、「仏の御弟子の鬢頭盧は末の世の功徳を増さむとて、涅槃に入らずして永く摩黎山にまします。もし僧のために湯を沸かさんむにはまづ暁に湯を調へて鬢頭盧を請ぜよ。花を敷きて座とし、戸を閉ぢ程をへよ。後に開いてみるに、ある時には湯を使へるさまを示し現わす」と云へれば、天竺にはみなこのことをす。この国にも然する人あり。

  東大寺二月堂の修二会(「お水取り」と呼ばれる)は練行衆による本尊十一面観音への「悔過(けか)」(罪科を懺悔すること)法要であるが、潔斎のための入浴に先立って鬢頭盧尊者が湯屋に迎えられ、賓頭盧の脱衣として一揃いの衣・袈裟が湯殿の外に置かれるという。

 *おひねり
男湯の「高座」に鏡餅が置かれているので正月であろう。三方におひねりが積まれている。女湯の番台に無いのはなぜであろうか。

 江戸は湯銭、天保前男女ともに一人十文・小児八文を定めとすれども、当地は四当銭の通用すること多きをもって、十人の中七、八人は、四当銭二文を与ふ。小児(童形)には多く四当一銭を与ふ。しかれども、湯屋これを咎めざるの習風となる。冬増銭なし。
 天保府命以来、今に至り、八文を定めとし、童形六文、小児四文となる。また冬も増銭なし。文久三年以来、薪高価により、十二銭となる。
 また正月元日、二日、三日、七日、十四日、十五日、二十日、二月初午、三月三日、五月五日、六月祭祀日、七月七日、十五日、十六日、八月十五日、九月九日、十月二十日、十二月十三日、三十日(下{右}に洩るる分、正月十一日、十六日。十二月十三日、煤払の日なればなり)。けだし元日、二日、三日は、板(間?)にて浴後の客へ茶を出す故に、これにもまた十二銭を与ふ。右等の日は十二銭を白紙に包み与へて湯銭とす。これを「おひねり」(おひねり、御捻なり)と云ふ。この日は高坐前に春慶ぬりの大三方を置きて、御ひねりをこれに積む。
 また五月四日、五日、菖蒲を槽中に入れ焚き、六月△△△は桃の葉、冬至には柚子を輪切りにしてこれを入る。しやうぶゆ、もゝ湯、ゆづ湯と号す。この日、皆十二銭のおひねりなり。京坂このことなし。文久三年以来、湯銭十二文、おひねり十六文となる。(『守貞謾稿』巻之二十五)

画像(板の間の図 上『賢愚湊銭湯新話』下『浮世風呂』)
 板の間といっても板のままではなく敷物が敷かれているようである。
『江戸繁昌記』二編(天保五年1834刊)には「単席数筵界筵施闌自闌至室」とある。数筵とあるので、一面に敷き詰められていたのではなさそうである。
 また板壁には衣類棚がある。表に面した所は上部は連子で下部は衣類棚である。板の間と流しの間には仕切りがある。
 ちなみに入口近くに下駄が鼻緒に杖を通して置かれているが、盲人は自分の履物がわからなくならないよう普通このようにしていたようである。こうすると履物棚に置けないため板の間に置いていたものであろう。また二階へ上がる階段のところに、なくならないように長い紐に繋がれた櫛がぶらさがっている。
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  ところで志ん生師匠は「三年目」で「それは褌のさがりを顎の下に挟んでいた時分のことだ」という言葉を使っているが、これは単に六尺褌を締めていた時分という意味であろう。実際に締めたことはないけれども、想像するに、まず褌の片方の端を顎で挟み、前から後ろへ回して腰に巻いて後ろで結び、最後に顎に挟んだ端を下ろすのであろう。『賢愚湊銭湯新話』の挿絵にその姿が描かれている。
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          上石榴口・下水舟
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  石榴口の右にあるのは岡湯の汲み口である。水舟の水は自由に使えるが、岡湯は湯汲みに汲んでもらわなければならない。ずらりと並んでいるのは岡湯を汲んでもらうために順番を待っているのである。
右は湯汲みの側から見た図である。

『賢愚湊銭湯新話』の詞
湯は陽にして天のかたちによる故に、まろき柄杓をもつてまろき小桶に汲入るゝ。水は陰にして地のかたちによる故に、四角な水槽より四角な升をもつて汲とる。

〔とび八〕今時はいゝけれど、冬、寒くてがたがた震(ふる)ふをもかまはず、小さな柄杓で、だらりだらりと汲(くむ)やつさ。あんまり心いきがねへ 〔むだ助〕そのくせ夏はさるぼうをつけて随意に汲ませる 〔甘次〕その筈さ。冬は湯が湧(わか)ぬ。夏は捨て置ても湧上るはさ。(『浮世風呂』四編巻之上)

 註:さるぼう 『物類称呼』(安永四年自序)の「桶」のところに 京にて○かたてをけと云を、江戸にては○かたてをけ又○さるぼう又○くみだしとも云 越前にて○かいみづをけと云 加賀にて○かいげ 上野にて○ひづみと云 とある。

 岡湯を自由に使わせないのは燃料代がかさむからである。

 江戸の浴戸も松薪を用ふ。松薪、俗にさいまきと云ふなり。しかれども、古材・朽木その他とも何にても薪柴に代はる物はあまねくこれを焚きて、薪に代助するなり。穢物をも忌(いと)はず。これに因(よ)り、市民ら、古材・朽木ある時は、湯屋下男を呼びてこれを与ふ。また湯屋下男暇ある時は、近所を回りこれを求め、芥溜場(ごみためば)および川岸辺等を巡りて、竹木の類はあまねく拾ひ帰る。これを湯屋の木ひろひと云ふ。下男三、五人もあるは、その中の新参の専務とす。これ、文政以来のことなり。
 また、古材・朽木の類多き時は、価をもってこれを買ふなり。古屋を壊(こぼ)ち、あるひは年久しく売り得ざる材木等は、価をもつてするなり。
 右のごとく古朽の物を用ふるは、江戸の湯、はなはだ熱きを常とし、上り湯朝よりこれを開き、その湯の費はなはだ多き故なり。(『守貞謾稿』巻之二十五)

  『洗湯手引草』(嘉永四年1851)には銭湯経営の教えとして「実語教」になぞらえて「湯語教」なるものをあげている。その最初に
 湯語教 薪高故不焚多分  まきたかきがゆえに たんとかたず
       以有古木薪為貴   ふるきあるをもつて  まきたつとしとす

 実語教 山高故不貴    やまたかきがゆえに たつとからず
      以有樹為貴     きあるをもつて たつとしとす

 水舟の後ろの羽目板に掛け竿がある。この図では褌?が掛かっているが浴衣も掛けた。板の間で着物を脱いで、浴衣をひっかけあるいは持って流し場に入り、掛け竿に掛けて置く。湯からあがるとき流し場で浴衣をひっかけ板の間に出て着物に着替えるのである。

此内ばゝ文字はじめ三人とも、ぬかぶくろを水ぶねのわきであけ、よくすゝいでしぼり、みなみなゆかたになりてあがり、きものを着かへて云々(『浮世風呂』三編巻之上)
  引用者註:婆文字(三十ばかりの新造)、豊猫(十八九のぽっとりもの)、おはね(廿一二のやせっぽち)
名代(なだい)のひやうきん者とよばれしかみさま、浮世風呂とは一ツながやと見えて、湯くみばの片わきなるひらき戸を明て、ゆかたのなりにて出来り、水ぶねのわきのかけざをにかけ置、ざくろ口へはひりながら云々(『浮世風呂』三編巻之下)

  浴衣を持って湯に行くのは女性に多いが、男にもいる。
ハイどなたもおゆるり ト甘次はゆかたをかゝえて立帰る(『浮世風呂』四編巻之上)

  上にあげた『浮世風呂』板の間の図では男は浴衣のまま、着物を抱えて帰ろうとしている。

 ちなみに、浴衣は本来は町を着て歩くものではない。浴衣は文字通り風呂や湯で使うものである。上方と違い江戸では単衣(ひとえ)のような浴衣が現れ、外出にも使われるようになった。そして本来の浴衣を湯上がり浴衣とも呼んでいる。『守貞謾稿』には江戸の「この単衣と浴衣の差別は、はなはだ釈し尽くしがたきなり」と書かれている。もともとは次のような区別があった。

         袖       地の色   染め・模様
 木綿単衣 角袖袂仕立  紺・鼠    縞を専ら、型染の場合も細密
                         絞りは使わず
 浴   衣 広袖       白・浅葱  絞りを専ら、型染・かすりの場合は大型

 広袖とは袖口を縫わないもの。従って袂はない。また浴衣は素肌の上に直に着るが、単衣はそうはしないなどの違いがあった。


  *追補 「褌のさがりを顎の下に挟む」について
元禄三年刊の軽口本「かの子はなし」中巻に次のようなものが載っている。
  人一倍きれい好きな人が見事な毛抜きを袱紗でよくぬぐって髭を抜くと、側の男が空いたら貸してほしいと頼む。貸してもいいが「むさき所を抜きなさんな」と云って貸す。男は心得ましたといって顎の下の髭を抜くと、貸した人は無理やり毛抜きを奪い取って、むさき所は無用といったのに「心得た」といっておきながらという。借りた男は顎の下がどうしてむさいものかというと
「『朝晩褌を挟む所でござらぬか』といふた。尤なり。」


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