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zoom RSS 落語の中の言葉175「卯月八日は吉日よ」

<<   作成日時 : 2017/12/10 20:15   >>

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     三代目三遊亭金馬「浮世床」より

 噺の中にしゃれ将棋が出て来る。駒を動かす度にしゃれをいう。
  角の腹に金があがって 金角寺の和尚〔金閣寺の和尚〕
  歩を突いて        歩づき八日は吉日よ〔卯月八日は吉日よ〕
  角の道を開けて     角道の説法屁一つ〔百日の説法屁一つ〕
  角が成って        成角総理大臣〔内閣総理大臣〕
  歩をさして         ふさしたての薩摩芋〔ふかしたての薩摩芋〕
  飛車が出て行って    飛車は出て行く〔汽車は出て行く煙は残る〕
  歩をさして         歩さしの下の雨宿り〔廂の下の雨宿り〕

 この中で「卯月八日は吉日よ」は耳慣れない。これは虫除けの呪(まじな)いの詞だという。

四月八日に家ごとに厠にはりおく歌、
    ちはやぶる卯月八日は吉日よ神さけ虫をせいばいぞする
この歌は虫よけなるよしにて、都鄙ともにする風俗なり。これにも所によりて歌の詞異なるあり。周防国野上の里の辺にては、
    年々の卯月八日は吉日よ尾ながのむしをせいばいぞする
予過しころ日光道中の間久里(まくり)なる秋田屋といふにて見しは、
    今年より四月八日は吉日よ神さけ女郎せいばいぞする
とあり。この虫よけの歌のこゝろ何ともわきまへがたし。曳尾庵の説に、この歌は神職の仏をいやしめたるなるべし。そは四月八日は釈迦の誕辰なり。さて神は仏を忌み避くることにて、神宮の忌詞(いみことば)にも仏をなかご、経(きよう)をそめがみ、僧をかみながなどいへり。神さけむしは仏をさしていへるなり。むしといふ詞は、物をいやしめのゝしる時の詞にて、涕泣するものを泣むし、柔弱なる者を弱むしといふ類ひ俗語にいと多かり。されば仏生日に、神さけむしの仏を成敗する今日こそ、吉日なれといふことならんか。その歌を厠にはりおけるは、ことさらに不浄なる所をもとめ置けるなるべし。(山崎美成『世事百談』天保十四年1843刊)

  加藤曳尾庵『我衣』巻五(文化六年1809)には
四月八日きのふより小雨。彼児女の書て柱に出す歌に、「千早振卯月八日は吉日よ髪さけ虫をせいはいそする」此歌はいつの比よりといふ事をしらず。依て考へ見るに、千はやふるといゝかけたるは、いづれ神道の心なるべし。是を躰ととりて卯月八日は用也。此日釈迦の誕生の日とて、いか成寺院も群集をなし寺毎に灌沸仏を餝り銭をとらんとかまふ也。神道よりにくみてそしれる歌なりと覚ゆ。仏躰は頭をそる故に、僧尼のたぐひを虫と見て、髪をさげる虫同前といふ心ならんか。せひばひぞするといふ七文字をさかさまに書たるは、釈迦の生れたるをさかしまにかへして死に至らしむるの謂ならんか。惣て神道者の仏を忌む事敵の如し。
  とある。
 『我衣』には「せひばひぞする」を逆さまに書くとあるが、『江戸生艶気樺焼(えどうまれうはきのかばやき)』中巻では上の句だけを書いた紙を逆さまに貼っている。
画像
    (この画像では文字はかなり見にくい。同書は国立国会図書館HPのデジタルコレクションに公開されているものがあり、大きな図で見られるので少し見やすい。)

 江戸時代には多くの「まじない」があった。落語にも呪いが時々出て来る。
  こめかみに梅干〔頭痛を治す〕ーーー「三軒長屋」
  盛り塩・鼠鳴(ねずな)き〔客を招く〕 ー「居残り佐平次」
  ながきよの…の歌〔良い初夢〕ーーー「一目あがり」

「まじない」の中から歌の形をしたものを次ぎにあげる。

一、のどへとげ立候時、めいよまじない歌、「いせのいの、いせののけはぞ、いせにすむ、いせへ帰りて、いせにこそすめ」(右ノ哥水の上にてよみ、あひらうんけんを三べん申、水をのませ候。)
一、のどへうおのほね立たる時、めいよ歌、「うのはふく、うのはの風に、さそわれて、行衛も知らぬ、うをのほねかな」(水へ右ノ歌三べんよみ、あひらうんけんを申、水のませ候。)
   (榎本弥左衞門「万之覚」寛永十六年1639〜万治三年1660 『榎本弥左衞門覚書』)

一、羽蟻出てやまざる時、
  双六のおくれの筒に打まけて羽蟻はおのがまけたなりけり
右の歌を書て、フルベフルヘト、フルベフルヘト唱へ張置ば極めて止と、与住氏の物語なり。
   (根岸鎮衛『耳嚢』巻之一)
    根岸肥前守鎮衛(元文二年1737生、文化十二年1815歿)

一、小児など咽へ魚の骨を立て難儀の時、「鵜の鳥の羽がいの上に觜(はし)置て骨かみながせ伊勢の神風」と、三辺(べん)唱へて撫れば抜る事奇々妙々のよし、或人語りけるなり。
   (根岸鎮衛『耳嚢』巻之四)

一、子供くさが出来たるに、左の歌をかきて張をけば癒るとぞ。
   春の日の長(ながき)に草もかりすてんとくかりつくせ庭の夏草
   (志賀忍『理斎随筆』文政六年1823序)

一、予友原氏がいはく、虵の出ざる咒(まじない)、左の歌を張置時は出る事なしと言へり。
   此山に鹿子まだらの虫あらば山立姫に告て取らせむ
   (宮川政運(まさやす)『宮川舎漫筆』安政五年1858自序)

 ちなみに「なかきよのとをのねふりのみなめさめなみのりふねのをとのよきかな」の歌について少し触れておこう。幕末の江戸では
 宝船 七福神乗合船の図の上に、「長き夜のとおの眠りのみな目ざめ、波のり船の音のよきかな」という歌を、当時駿河半紙といいし紙半枚に、墨摺りにしたるを売り来たる。二日の正午に過ぐる頃より夜にかけて、売る者繁し。「お宝お宝エ―、宝船宝船」と呼ぶ声、町、屋敷前とも聞こえざるはなし。この宝船を枕の下に敷きて二日の夜に眠れば、初夢の吉兆を見、今年の開運という。また宝船を売り歩けば、身の幸福を得るとて、随分身柄よき若旦那達の道楽に出でけるもありて、知れる家に呼び止められ、互いに笑うなどもありたり。または職人衆の宝船売りのお得意へ呼び入れられ、御酒の幸に預かりて、端唄・清元の隠し芸の役に立つなど、二日の宵の口にありたり。 (『絵本江戸風俗往来』明治三十八年刊)

『守貞謾稿』巻之二十六にある嘉永四年に売り歩いたという摺りものの図をあげる。
画像

  江戸では二日の夜、枕の下に敷いて寝たようであるが、古くは節分の夜であった。
一今時正月二日の夜宝船の絵を枕の下に敷く事あり。昔は節分の夜にこれを用いしなり。正月二日にはあらず。『年中恒例記』に云う、「節分の夜紙にかきたる舟絵伊勢守進上之。女中衆同朋衆迄被調申之云々」。又『巽阿(そんあ)覚書』に云う、「御船の事、上意大引、其外小引、御下迄は引合。御末女(びじよ)杉原也云々」〈大引・小引とは引合せの紙の大小を云う〉。右、京都将軍家にての事なり。
〔頭書〕今正月に禁裏にて用いらるる宝舟の絵は、舟に米俵を多くつみたる絵なり。七福神の像などは書かぬなり。右の絵、板木にておしたる物なり。(伊勢貞丈『貞丈雑記』巻之一 宝暦十三年1763起筆)

  禁中の有職故実に精通した勢多章甫(のりみ)も『思乃儘の記』巻二(明治二十三年)に次のように記している。
節分の前に、宝船の板を御物仕より十帖〔割註〕紙の名也。」を添へ出し、御使番に摺らせ、宮方はじめへ給ふとぞ。この図中の貘の字は、後陽成天皇の宸筆なりと云伝ふ。鷹司家にも一種の宝船の図あり。夫には秀吉の朱印を捺せり。

 宝船の絵は古くは七福神ではなく米俵や宝物を描いたようである。
宝船、正月二日、宝船とて售ひ候、始原相弁不申、大内にも候哉、船の形に宝貨を積、帆には丸の内に獏の字を記し候ものは、年々被行候よし、
江戸にて宝船と唱へ候は、一枚摺の半紙に、船のうち七福神の図を画き、永き世のとをのねぶりの云々の歌を出し、印行仕候様おぼえ申候へども、七福神は神仏混淆いたし、絵師狩野探幽画き出し候趣にも有之候間、古き風俗には御座有間敷候、(斎藤月岑『百戯述略』明治初年)

 斎藤彦麿『神代余波』(弘化四年1847自序)下巻に載せる古い宝船の図をあげる。
画像

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