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zoom RSS 落語の中の言葉176「大黒」

<<   作成日時 : 2017/12/30 20:41   >>

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    「三井の大黒」より

 左甚五郎は政五郎の所で毎日寝たり起きたりしているとき、政五郎から夷、大黒を彫って市に出すといい値になるといわれ、三井越後屋から大黒の像を頼まれていたことを思い出す。

 七福神の一人である大黒さまは仏教の大黒天と大国主命が一緒になったものと言われている。
 望月信成・佐和隆研・梅原猛『続 仏像 心とかたち』によると、
この尊(大黒天)は大自在天(シバ神)の化身として、三面六臂黒色忿怒の相を示し、両手で象皮を背後にひろげた形に作られたものがはじめである。この姿のものはあまり日本では制作されていないが、ラマ教ではかなりに信仰された忿怒尊像である。インドではこの尊像が厨房の守護神として信仰されていたらしく、唐義浄がインドに行って見聞したところによると、食厨の柱の側にまつっていたと南海寄帰内法伝第一受斉軌則に述べている。その姿は黒色の神王の状で金嚢を執り、小牀に坐し、一脚を地に垂れた形であったといっている。
 日本においては比叡山系統の寺院で、政所大炊屋に安置したものが多い。平安時代の古い形式を伝えた大黒天像は武装した二臂の姿で、手に小さい袋をもった姿に作られている(滋賀金剛輪寺等)。しかし、平安後期には唐服を着て、武装を捨て大きい袋を肩にかけ鳥帽子をかぶった姿が作り始められ、その変形が後世にさまざまに行なわれるようになったのである。その場合、大黒天はその信者に絶対に食事の不自由をさせない福神として信仰され始め、すべての福を授ける神ともなったのである。そのために武装の姿はとりあげられなくなった。その代わりに江戸時代には打出の小槌をもって、俵を踏んだ姿に作りかえられるようになったのである。
 日本における福神信仰は鎌倉時代ごろから日本化して特に庶民のあいだにひろまっていったらしい。大黒天は大国主命と同じという信仰がでてくるとともに、毘沙門天と弁才天とを合した三面大黒天の信仰まで成立して(い)るのである。三面大黒天は最初には最澄が比叡山に安置したのが、はじめであるといわれている。しかしこの場合の三面は忿怒形大黒天の三面ではなかったかとみられる。三体の福神の表現は恐らく室町時代にまで遡りうるか否か。その決定的結論を得るまでには調査ができていない。

 マハーカーラ(大黒)はもと大自在天(シバ神)の破壊・戦いの化身で、仏教に取り込まれたとき変化している。それが大国主命と結合してさらに変化して柔和な福の神となったようである。今日の大黒さまは仏教のマハーカーラ(摩訶迦羅)よりは大国主命の性格の方が強い。

世上信仰する大黒の像は、日本大国神の像にして、仏法にいふ大黒天神には非ず、天竺にては摩伽伽羅天神と云て、其神躰異形也、摩伽伽羅と云文字を翻釈すれば、大黒の二字也、然らば今世に用る所の形像は、日本神道の大国神にして、天竺の大黒神にはあらず、取違へたるもの也、いかさま形像、日本の装束めきて天竺姿とは見えず、(『雑交苦口記』明和六年1769自序)

画像
     鳥文斎栄之「三福神吉原通い図巻」(文化頃)の部分

 大黒さまと云えば、頭巾を被り袋を背に掛け打出の小槌を持って米俵を踏まえた姿でお馴染みであり、鼠が使わしめである。そして袋も鼠も大国主命と関係がある。

大黒記に云、大己貴命を大黒と云、袋を負、鼠をつかひ給ふ事、旧事紀、古事記にのせたり。〔旧事記、古事記に、大己貴命、八上娘を娶んとて、袋を負てゆくに、鼠参りて、内は富良富良外は須夫々々といひしことをのせたり。〕槌をもつ事は、槌は土地也。地主神敬の表也。(石上宣続『卯花園漫録』文化六年1809)

 古事記の大国主命には袋と鼠が出て来る。袋は兄弟の八十神に試練を受けるところ、有名な因幡の白兎の段にある。次田真幸氏の現代語訳(講談社学術文庫)を紹介する。
 因幡の白兎
さてこの大国主神の兄弟には、多くの神々が居られた。しかしみな、この国を大国主神にお譲り申しあげた。お譲りしたわけはつぎのとおりである。その大勢の神々は、みなそれぞれ因幡のヤガミヒメに求婚しようという下心があって、いっしょに因幡に出かけたときに、オホナムヂノ神(大国主神)に袋を背負わせ、従者として連れて行った。

 この時、ワニを欺して海を渡ったため「ことごとくに着物を剥」がれた兎を助けるのである。
 また鼠は根の国で須佐之男命から与えられる数々の試練の中の一つに出て来る。これも次田真幸氏の現代語訳で。
 根の国訪問
またスサノヲノ命は、鏑矢を広い野原の中に射込んで、その矢を拾わせなさった。そこでその野原にはいったとき、ただちに火を放ってその野を周囲から焼いた。そのとき出る所がわからず困っていると、鼠が現われて、「内はうつろで広い、外はすぼまっている(内はほらほら、外はすぶすぶ)」と教えた。そう鼠がいうのでそこを踏みこんだところ、下に落ちこんで、穴に隠れひそんでおられた間に、火は上を焼けて過ぎた。そしてその鼠が、先の鏑矢をくわえて出て来て、オホナムヂノ神に奉った。その矢の羽は、その鼠の子どもがみな食いちぎっていた。

 面白いことにマハーカーラも袋と鼠(ちょっと苦しいが)に関係があるという。
西域地方の図像資料に、毘沙門の侍者の中に、鼠を持つものが存在する。(中略)乾闥婆は、右手に鼠様の小動物の首を持ち、左手には宝珠を捧げ持っている。(中略)
七世紀末にインドに赴いた中国僧・義浄は、その著『南海寄帰内法伝』に、鬼子母神がインドの仏教寺院の「門屋や食厨」に祀られていることを述べ、それに続けて、「西方の大きな寺には、食厨の柱の側や倉の門の前に二、三尺の木に彫刻した神王の像が置いてある。金の巾着〔原文「金嚢」〕を持って小さな床几に坐り、片足を地に垂らした形である。この像はいつも油で拭いているので、真っ黒になっている。これは莫訶哥羅(まかから)、すなわち大黒神と呼ばれる神である」と書いている。すなわち、福神としての大黒は、インドにおいてすでに袋を持ち、鬼子母とともに寺院の食堂で祀られていたのである。その鬼子母がパーンチカの妻であり、パーンチカがヤクシャの統領クベーラ/毘沙門と習合していたことを考えるなら、大黒と毘沙門が近い関係にあったことは、十分に想像できるだろう。つまり、敦煌の版画で鼠と宝珠を持った毘沙門の侍者の乾闥婆は、いわば、日本の福神としての大黒の前身とも言うことができるのである。(彌永信美「仏教神話」『仏教の事典』朝倉書店)

 打出の小槌と大黒との関係は不明である。頭巾については「大黒の極意」として徳川実紀に家康と吉宗の話として二度出ている。家康の方を紹介する。
太閤が伽の者に。曾呂利伴内といふいと口ときおのこあり。折々は  君の御館へも参り御談伴に候したるが。或時伴内。世の中に福の神なりとて。人のうやまひまつる大黒天の事を申侍らん。まづ人間に食物なければ。一日も生てある事かなはざるゆへ。大黒はその心もちにて米俵をふまへ居たり。さて食ありても財なければ用度を弁ずる事ならざるをもて。大黒は袋をもち。そが口を左の手にて括り。無用の事には財を費すまじとかまへたり。さりながら財を出さでかなはざる時は。手に持し小槌をもて地をたゝけば。何程もおしげなく打出すなり。又夏冬ともに頭巾を深くかうぶりて居るは。己が身分をわすれ。かりにも上を見るまじとてなり。すべて人々もこの心がまへせば。永く福禄を保つべしとの心にて。福の神とは申なりといへば。 君汝がいふ所よくその意を得たり。されど大黒の極意といふことはいまだしるまじ。かたりて聞せん。かのいつも頭巾をかぶりてあれども。こゝが頭巾をぬがでかなはざる時ぞと思へば。その頭巾を取て投すて。上下四方より目を配り。いさゝかさはるものなからしめむが為に。常にはかぶりつめてあるぞ。是ぞ大黒の極意よと宣へば。伴内も盛旨の豁大(かつだい)なるに感じ。後太閤の座にありて此事いひ出しに。太閤今の世にもわた持のいき大黒があるをしりたるかと尋らる。伴内心得ざるよし申す。太閤いき大黒とは 徳川の事よ。汝等が思惟の及ぶ所ならずといはれしとぞ。(「東照宮御実紀附録巻七」)

 ところで噺の中で市(歳の市)に出すといい値になるとあるが、浅草の歳の市でよく売られたらしい。そしてそれを盗むと幸運が得られるという俗信があったようである。
十二月十七日、十八日、浅草雑器市とて、人々正月の用意物を商ふ。其中に恵比寿、大黒を彫刻して、いくらともなく店々に出して商ふ也、然るに、此恵比寿、大黒を盗取ぬれば、富貴に成と言伝へて、皆々心がけて盗む事とす。尤、富貴を好み貧賎を憎むは、人情の常なれども、人の物を盗み、己れが富貴になり繁昌するとも、本意成まじき事也。剰、神仏を盗み、其神仏に願ひたりとも、豈(あに)神仏うけ玉はんや。(石上宣続『卯花園漫録』文化六年1809)

鷲大明神は運の神と名付てむせうに朝、夜霧を払つ出て行、運の神だから強そふなものだが帰りには皆胴取の方へむまみをとられ、詫言してうけつことやらを仕て、漸々芋の頭を竹を輪にして釣リ下ケて、ひだるそうな顔色て帰り、明キ店へ道具を運ぶ様に夜食を喰ふ、此等の人、浅草の市て大黒を盗むと仕合が能(よ)ひと言輩にて云々(『大通俗一騎夜行』安永九年1780自序)

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       『江戸名所図会』巻之六

この俗信は『東都歳事記』などには出ていないが、江戸時代には盗みは重罪であったから憚られたのかも知れない。古川柳には多く詠まれている。

   米二俵たもとへ入る運のよさ     誹風柳多留一四篇
   大黒ハぬすんてばちにならぬもの  誹風柳多留二四篇
   くれの市毎年ぬすむりちきもの    誹風柳多留拾遺一
   ゑびすさま人たがへにて盗まれる  誹風柳多留五篇
   俵のついでに鯛迄ぬすまれる     誹風柳多留一四篇

『卯花園漫録』には「恵比寿、大黒」とあるが、盗んで幸運が得られるのは大黒の方だったようである。

 また、寺方の奥さんを「大黒」と呼ぶ。これは仏教の摩訶迦羅が台所に祀られていたことから来ているのであろう。
 桂米朝師匠は「ぬの字鼠」の枕で大黒の頭巾について次のような小咄をしている。
ある絵師が大事なお客から大黒が頭巾を脱いでたたんでいるところを描いてくれと頼まれたが、どんな髪型をしているのか分からず、三面大黒を祀るお寺の住持に尋ねる。住持も寺には三面大黒も画も多くあるが皆頭巾を被っていて髪の形は分からないと云うと、側で聞いていた小僧が知っているという。どんな髪をしていると聞くと、「よそは知りまへんけど、うちは丸髷でんねん」

   大黒にやいやだいやだとさくら姫   誹風柳多留四篇
   大黒ハ五かいの内のひとつなり    誹風柳多留二四篇

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