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zoom RSS 落語の中の言葉178「町内の若い者」

<<   作成日時 : 2018/02/10 20:10   >>

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         五代目柳家小さん「芋どろ」より

 盗みに入ろうと企んだ三人の泥坊が、一人を芋俵に入れて担いで、狙いを付けた店に行き、忘れてきた釣り銭を取ってくる間預かってくれと頼む。その時、「町内の若いもの」という言葉を使う。落語には「町内の若いもの」がよく出てくるが、この咄のように自分で言う時には単に「同じ町内に住んでいるもので怪しいものではない」という意味だけではなさそうである。対応によっては仇をするぞというおどし文句としての意味合いを含んでいるように思われる。
 上方咄の「風の神送り」(三代目桂米朝)では風邪が大流行し方々で風の神送りをしているからこの町でもやろうと、若い者が親仁〔おやっ〕さんに相談する。帳面を作り、親仁さんが年寄役になって軒並みに銭を貰って歩く。途中で客が来たとの知らせで親仁さんはいったん家へ戻り、若い者だけで歩く。けちで評判の十一屋にも軒並みのことだからと頼みに行くと付き合いだからと言って出したのが二文。町内の若い者がこれだけ顔を揃えているのに二文とはなんだと投げつけようとするところへ親仁さんが戻り若い者を叱る。親仁さんはこれだけの身上の十一屋から二文貰ったのでは銭を出してくれた他の人に申し訳がないから無事に風の神送りが終わる預かってくれといって貰った二文を預ける。そして喧嘩もいっしょに預けるのだと啖呵を切る。若い者の一人も廻らない口で啖呵を切るが、その間に別のものは鼠を捕れないようにと猫のひげをむしってしまったり、火消し壺へババをしたり、油徳利を井戸に投げ込んで当分の間使えないようにしたりする。こうした仇をなすのは大坂に限らない。江戸も同じだったようである。

 寛政三年1791四月十五日町奉行から申し渡された町法の中に次のような項目がある。
一俗ニ若者と唱六ケ敷者共町々ニ有之、祭礼等其外吉凶ニ付地主ヲねだり、或は七月灯籠之節又は神仏開帳之節、納物且秋葉石尊等参詣之入用其外、宗旨之出会出家社人之奉加帳ニ付候類ヲ、地主并地借店借之者共迄江無理ニ勧メ、不得心ニは(ママ)断候得は意趣ヲ含、仇ヲ成候事抔有之、自然と渡世之妨ニ成候故、無是非其意ニ任せ候類も有之由相聞、不埓之事ニ候、以来右躰之者町々ニ於有之は其訳書付、印封ニいたし、当壱人持参、番所江可差出候、早速吟味之上、其品ニ応シ夫々御仕置申付、仇ヲ不成様取計可遺事(『江戸町触集成』巻九)

 天保十二年1841には「若ヒ者頭」と唱えるもののうち主立った九人を白洲に召しだし申し渡すとともに証文を書かせている。ゆすりたかりに類することもあったようである。

 竹内誠氏は『浅草寺日記』にもとづき次のように書かれている。
明和七年(一七七〇)三月晦日の「押勧化」の記事は興味深い。すなわち、「三社権現其外稲荷等祭礼之節、門前若者共幷子共大勢神酒代寄進物申立、一山地借之者江押勧化、少分ニ而者得心不仕悪口抔申、無体之致方ニ而地借之者共難儀至極仕候」とある。
 これによって、三社祭礼や西宮稲荷祭礼などの節、神酒代その他の寄進を強要する風習があり、人びとが迷惑していたことがわかる。ここで注目すべきは、引用史料中の「門前若者共」である。祭りに活躍する若者たちの行動が、マイナス面でとらえられた最初の記事だからである。しかもこうした押勧化は、のちにはしばしば打ちこわしに発展した。
(中略)
 三社祭礼は、喧嘩のみならず打ちこわしの絶好の機会にもなった。寛政八年(一七九六)六月の「浅草寺日記」の記事にも、宮元三カ町の若者たちは常日頃から「御境内楊枝見世・茶見世等江参り我意を振ひ、又ハ町家之内酒見世等出し候へば、三ヶ町若者頭抔と若ヶ□者之方ゟ此方へ届無之抔と申候而、彼是差障り候趣抔も有之様子、其上年々三社祭礼之節、神輿持歩キ、平常之挨拶悪キ者之宅へ持込、打ちこハし候義など時々相聞候」とある。
 すなわち宮元三ヵ町の若者たちは、平素から浅草寺境内や門前町内で、かなりわがままな行動をしていたようである。そのうえ、常日頃若者たちにつけ届けや酒などの振舞をしない家に遺恨をもち、三社祭礼の折に神輿をその家にかつぎ込んで打ちこわすことが、しばしばあった。(『江戸社会史の研究』)

 ちなみに宮元三ヵ町とは材木町、花川戸町、山之宿町で、神輿を担ぐのはこの三町のものに限られていた。三社権現は観音像を網で得て祀った土師中知と檜前浜成・武成の兄弟の三人の霊を祀った社であり、神輿も三基である。土師中知を祀る一の宮、桧前浜成を祀る二の宮、桧前竹成を祀る三の宮。
画像
          『江戸名所図会』巻六

 また『世事見聞録』(文化十三年1816自序)には
 また右の鳶の者ども、町々にて若者と唱へ、居宅・土蔵の普請、または新規の店開き、そのほか吉凶に付け祝儀と号して多くの酒肴料をとるなり。もしその会釈少分なる時は遺恨を含み、なにかの時その仇をなせり云々
 とある。「鳶の者」と言っているが、若いものは鳶の者に限らない。ただその多くは店借り層とその子弟などの下層町民だったようである。

 ところで「ゆすり」という言葉について岡本綺堂が面白いことを書いている。
 御用道中のときには、必ず問屋場(といやば)(街道の宿駅で人馬の継立などの事務を掌った所)にかかって馬、駕籠などを雇ったものですが、問屋場の駕籠昇きの中にも助郷といって、近在の百姓などが臨時に駕籠を担いだり、馬を曳いたりしている者がありました。こういう者に対して、駕籠に乗っている仲間(ちゆうげん)などが、しきりに身体(か ら だ)を揺すったのです。まったく、身体を揺すられると駕籠を担げません。駕籠屋の方ではいまいましいと思っても、御用を笠に着ているのでどうすることもできません。
 仕方なしに駕籠屋の方から五十文出すから身体を揺すらないようにしてくれ、と頼みますと、仲間の方では「五十文くらいで身体を揺すらずにおれるものか。しかしせっかくだから一里くらいは我慢してやろう」といって、五十文もらって一里くらいはおとなしくしていますが、またそろそろ揺すり始めるので、駕籠屋は随分酷い目に遭わされたそうです。
 甚だしいのになると、江戸から京まで行く間に、五両も八両も強請(ゆす)ったということです。申すまでもありませんが、強請を「ゆすり」というのはこれから始まったのです。(『風俗江戸物語』)

 岡本綺堂がいうように幕府役人の御用のための旅や大名の参勤交代に従う人足のなかには本来自分が担うはずの荷物などを宿場人足に持たせ、自分は空身で歩いたり馬や駕籠に乗るものもあったようである。
寛政元酉年1789三月に出された勘定奉行への御触書には次の一項がある。
一往来之面々其家来并末々之人足共、近年は主人之権威を以道中ニて非分之仕形等有之、或は猥ニ手替之人足を取、或は自分ニ可持道具をも人足ニ持せ、其者は馬駕籠ニ乗、賃銭をも不払、又は宿々之者ニ対し非分之儀共申懸、若宿々之者申旨有之候得は、あたをなし候由相聞、不届之至ニ候、向後は江戸、京、大坂ニて雇人足請負之ものニ申渡、人足請負候度々人足共ニ急度申付、右之通り之不届不仕、若無拠子細有之、手替之人足取之、又は馬駕籠等ニ乗候節は、御定賃銭無相違払之、旅籠銭等之儀も是ニ同しく、少も非分之儀仕らせ間敷候、自今以後不法之族も有之は、道中宿々ニて改之、家来并雇之ものたり共、主人之姓名其もの姓名承糺、或は其役人重立候ものえ申断候上、早速道中奉行え相訴候様申渡候間、詮議之上当人は不及申、請負人迄急度可相咎條、其旨を可被存候事、(「天保御触書集成八十二」)
 なんによらず御触れが出されるとその当座はなくなるが、しばらくするとまた現れるようで、同様の御触れが数年、数十年おきに何度も出されている。

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