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zoom RSS 山東京伝手鎖

<<   作成日時 : 2018/04/10 20:08   >>

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 山東京伝・蔦屋重三郎等の処罰について曲亭馬琴は『近世物之本江戸作者部類』巻之一に次のように書いている。
 かくて寛政二年官命ありて洒落本を禁ぜられしに、蔦屋重三郎〔書林幷に地本問屋〕、その利を思ふの故に、京伝をそゝのかして又洒落本二種を綴らして、その表袋に教訓読本かくのごとくしるして、三年春正月、印行したり。そは『錦の裏』といひ〔よし原のしやれ本〕、『仕掛文庫』〔深川の洒落本〕といふ二種の中本(ちゆうほん)〔大半紙二ッ裁〕也。この洒落本は、京伝が特によくその赴きを尽したりければ、甚しく行れて、板元の贏余(えいよ)(=もうけ)多かり。
 この事官府に聞えにけん、この年の夏五、六月の比、町奉行初鹿野河内守殿の御番所へ、彼洒落本にかゝづらひて出板を許したる地本問屋行事二人〔いせ屋某、相行事近江屋某両人也〕、幷に『錦の裏』『仕掛文庫』の板元蔦屋重三郎、作者京伝事、京橋銀座町一町目家主伝左衛門悴伝蔵を召出され、去年制止ありける趣に従ひ奉らず、遊里の事を綴り、剰(あまつさえ)「教訓読本」と録して印行せし事不埓なりとて、しばしば吟味を遂られしに、板元幷に作者等、「全く売徳に迷ひ、御制禁を忘却仕候段、不調法至極、今さら後悔恐れ入候」よしをひとしく陳謝に及びしかば、その罪を定められ、行事二人は軽追放、板元重三郎は身上半減の闕処(けつしよ)、作者伝蔵は手鎖五十日にして免されけり

 引用者註:「中本」とあるのは貸本屋用のもので一般販売用は小本である。

 蔦重は新たに設置された行事から出板して苦しからずと「差図」されて出しているのであって無断で出板した訳ではない。ただ新板は正月に売り出すことが多く、彫り等に時間が掛かることから前年の夏や秋から準備は始めることが多い。十一月に町触が出た時には相当作業は進んでいたのではなかろうか。
 また処罰された時期を「この年の夏五、六月の比」とあるが、不審。『山東京伝一代記』(京伝の実弟京山の作という)には寛政三年1791三月に町奉行初鹿野河内守が老中に出した「御伺之書面」が載っている。伺いの内容は京伝は「五十日手鎖」、蔦屋重三郎は「右本絶板之上、身上に応じ重過料」、行事二人は「身上に応じ重過料」である。実際の刑は蔦重と京伝は伺の通りで、行事は伺より重く「軽追放」となった。行事が出板を許可したからであろう。江戸の町奉行は中追放までは手限仕置といって老中に伺いを立てずに専決できるはずであるが、前年十一月に出された御触れに違反した事件はおそらくこれが初めてで先例がないために伺いを出したのではなかろうか。なお「絶板」とは版木と在庫の焼却処分であって、今日の絶版とは違う。

 また喜多村信節『きゝのまにまに』には
作者山東京伝御咎にて、手鎖にて町内預と成、そのころ大かた古き作者うせて此者専ら戯作をなす、殊に洒落本と唱ふる小冊多く作り、錦の裏仕懸文庫など大いに行はれたり、専ら此御咎也、(京伝予ニ語て曰く、封印改ニ出る度、腰掛より人の往来を見るに羨しく、身にことなくばのどけかるべき春の日をとおもへり、手がねに逢ひし者のひそかにはづすやう有など教けるが、おそろしくおほへて慎み居たり、と云しは実情なるべし、その時又曰、白川侯(引用者註:松平定信のこと)御退役の後、吉原深川などの遊所のさまを北尾政美に写さしめ、そのことばを京伝に命ぜられたりしかば憚ることなく、そこらの事うがちて書りと云へり、この巻物、予か友人堀田侯にて拝見せしにいとよくも画出来たりといへり、)

 とあって、「春の日」に手鎖の封印改に町奉行所へ出頭している。吟味が終わって処罰の伺いが三月に出されたのであれば、申渡しが五、六月と云うのは遅すぎるように思う。たぶん馬琴の記憶違いであろう。なお京伝は手鎖を「手がね」と云っている。

 ついでに言うと「手鎖」には百日と五十日・三十日とがあって、百日手鎖は隔日、五十日・三十日手鎖は五日毎の封印改めである。

『古事類苑』法律部
  手鎖
手鎖ハ、庶人ニノミ科スル刑ニシテ、罪人ノ両手ニ杻シテ之ヲツ封スルナリ、但シ其罪ノ軽重ニ由リテ三十日、五十日、一百日ノ差アリ、一百日處刑ノ者ハ、隔日其封ヲ撿シ、五十日以下ハ、五日毎ニ之ヲ撿ス、而シテ此刑ハ附加刑トシテ科スルコトアリ、
手鎖ニハ吟味中手鎖ト、過怠手鎖トアリ、吟味中手額ハ、裁判中手鎖ヲ施スナリ、過怠手鎖ハ、過料ノ刑ニ處セラレタル者ノ、貧窶ニシテ其銭ヲ出スコトヲ得ザル時、此刑ニ處スルヲ謂フ、溜ニ於テ處刑スルアリ、是ハ囚人ニ限ル、又旅人宿ニ於テ處刑スルアリ、是ハ大抵訴訟ノ為メ江戸ニ出テ、宿預トナリタル者ノ、受理シ難キ訴ヲ為シタル時、徑チニ其旅宿ニ於テ之ヲ施スナリ、又単ニ此刑ニ處シテ、宿預或ハ町預ト為スアリ、或ハ私宅ニ於テ處刑スルアリ、是ハ大抵過怠手鎖ナリ、

〔御定書百箇條〕御仕置仕形之事
従二前々一之例
一手鎖
  其掛にて手鎖かけ、封印附、五日目切に封印改、百日手鎖之分ハ、隔日封印改、

 江戸の前期には役人が出向いて封印改をしていたが、京伝の頃は町奉行所へ出頭して封印改を受けている。

   ふところ手見附へ来るとわけが知れ   誹風柳多留四篇
                                明和六年1769刊
   うでの無イ男の通るときわはし       誹風柳多留十三篇
                                安永七年1778刊

着物を着たまま手鎖をかけられると着物を脱ぐことが出来なくなるので、おそらく諸肌を脱いだ状態で手鎖をかけ、後で着物を羽織ったのであろう。結果懐手の状態になる。「ふところ手」も「うでの無イ男」も手鎖を受けた者であろう。またこの時期は常盤橋門内に町奉行所があった。
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手鎖の封印改めに役人が出張るのではなく奉行所へ出頭させるようになったは何時からなのかは分からないが、この川柳点が封印改のために出る姿を詠んだものとすれば、明和六年の時点ではすでに奉行所へ出頭していたことになる。
 江戸の前期は役人が出向いて改めている。明暦三年1657から元禄十二年1699までの入牢者を罪過により分類して記録した「御仕置裁許帳」(『近世法制史料叢書第一』)に「手鎖を抜者之類幷手鎖之儘致欠落者之類、同請ニ立者」という分類項目があり、一三件記録されている。ほとんどすべてが手鎖を受けた者を預かった家主等からの報告で手鎖外しや欠落(=失踪)を把握しているが、一件だけは役人が改めに出かけた際に発見している。

「手鎖之封印を切放シ、鎰(かぎ)なしニ鎖之明キ候様ニ仕置候を、今日封改ニ参候処、改見出シ、云々」。 この者は天和二年戌八月十九日入牢、「日本橋ニ三日晒、戌十月廿八日於浅草磔」

 手鎖外しはこの時代、磔や斬罪など死刑になっている。吉宗の時代に作られその後追加変更された「御定書百箇条」では
八十五条 牢抜手鎖外シ御構地え立帰候もの御仕置之事
手鎖外し候もの  過怠手鎖に候はゞ。定之日数より一倍之日数手鎖。
            吟味之内掛置者に候はゞ。百日手鎖。

と大幅に軽くなっている。

 また刑罰の「手鎖」は「てじょう」が正しいと思われる。漢字は元々中国語を表記するための文字であり、日本はそれを借用して来た。漢字にはない音の文字にあてているものがある。「つれづれ」に徒然、「さみだれ」に五月雨など。江戸時代には「あしらい」に会釈、「ねだん」に直段、「わざわざ」に態々、「なおざり」に等閑、「かどわかし」に勾引などの漢字を宛てている。
 「鎖(さ)」という文字を漢和辞典で引くと次ぎのようにある。
解字 形声文字。交錯の意の語源(叉さ)からきている。組みかわして開かぬようにするもの、錠の意。ひいて、とじるの意になった。また、金属の環をつぎつぎに交錯させて索状にしたもの、すなわち、くさりの意味に用いる。
字義 @じょう。じょうまえ。 Aとじる。とざす。 Bくさりでつなぎ、自由を奪うもの。 Cくさり。 Dものごとの要所。 Eチェーン(イギリスの距離の単位)(『角川漢和中辞典』)
 鎖国・閉鎖も「くさり」とは無関係である。
「御仕置裁許帳」にある「鎰(かぎ)なしニ鎖之明キ候様」の「鎖」は錠の意味で「じょう」と読んだものと思う。
 京伝が五十日手鎖に処される原因の三部作の一つである『錦之裏』には摂津国神崎の廓吉田屋(吉原を名目上神崎にしている)の二階の新造頭である川竹が禿の雪のに対して次のように云っている。
〔川竹〕コレゆきのやおれがくし箱の鎖(しやう)のをりる引出シに金があるから二朱持ていつておあしをかつてきや鍵は用(よう)だんすのひき出しにあるぞよ
  鎖に「しやう」(江戸時代は濁点を付けないことも多い)とふりがなをつけている。

「てじょう」という言葉に「手鎖(しゅさ)」という漢字を宛てているのであって、それを漢字の訓読みに引きずられて「てぐさり」と読むのは恐らく間違いであろう。そもそも江戸時代の「手鎖」は、金属製の瓢箪形の手かせに錠をつけたもので「くさり」は使われていない。
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