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zoom RSS 落語の中の言葉60「ヒゲ」

<<   作成日時 : 2011/04/10 21:37   >>

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 前回「髪結床」を取りあげたついでに、江戸時代のヒゲと月代について書いてみる。
 江戸時代も中期以後はヒゲの無い時代であったことは確かなようである。戦国時代から江戸時代初期にかけてがヒゲの時代であったのとは様変わりである。
当世男髭なき事
 見しは昔、愚老若き比、関東にておのこのひたひ毛、頭の毛をば髪剃にてもそらず、げつじきとて木を以てはさみを大にこしらへ、そのげつじき、頭の毛をぬきつれば、かうべより黒血ながれて物すさまじかりしなり。頭はふくべのごとくにて、毛のなきを男の本意風俗とす。扨又、髭はへたる人をば、面にく躰髭男と云てほむる故に、皆人髭を願ひ給へり。(中略)
 又ひげはへぬをは(おんなづら)と云てあざらひわろふ。(中略)
しかるに髭はへぬ男は、一期の片輪に生れけることの無念さよ、女づらと見らるゝ口惜さよ、と人の餘所言いふをも我髭のとがと、はづかしさのおもひ内にあれば色顔にあらはる。されば天正の比ほひ小田原にて岩崎嘉左衛門、片井六郎兵衛といふ者ざれごとを云あがりいさかふ。嘉左衛門髭なし。六郎兵衛、あの髭なしと悪口しければ即時にさしちかへ死たり。さるほとに男たる人の髭なしといわるゝは、をく病者といわるゝほどのちじよくに思ひたまへり。故に髭なき男は、あはれ髭はゆるものならば身をしろかへて毛髭をはへさせばやと願たる。(三浦浄心『慶長見聞集』慶長十九年自序)

ネット上では寛文十年と貞享三年に禁令が出たと書かれているものが多くあり(元和元年あるいは正保元年に禁令がでたとするものもある)、また何の根拠もしめさずにただ禁止されていたとしているものもある。本当にヒゲ一般が禁止されていたのであろうか。
 徳川家康はヒゲを好ましく思っていなかったようである。まだ秀頼が大坂城にいる時分に、家康の意を受けて本多正信が加藤清正につぎの三点を糺している。
@駿河・江戸に挨拶にくる前に、秀頼に挨拶していること
A挨拶に来る際、家臣団を大勢引き連れていること
Bヒゲをたくわえていること
@Aと並べてヒゲを問うていることはおもしろい。
 ついでに清正の返答をあげておく。
この三條御邊の詞をまつにも及ばず。某もかねて心づき。世の譏評にもならむかと思ひつるが。さりとて又改めかぬる事どもなり。御邊も知らるゝ如く。某はじめは故太閤の抜擢によて肥後半国を賜り。当家になりて小西が舊領をまし賜はり。一国の主となりしは。当家の御恩はいふまでもなけれど。そのかみ旧恩うけし太閤の御子のおはす所をよそに見て。空しく通らむは武士の本意にあらざれば。今さらこの事やめがたし。次に参覲の陪従を減ぜば。費用も省き家臣もよろこぶべき事なれども。西国の大名常は在国して。御用の折のみ召るるならばともありなむ。近頃の如く交代して参覲するからは。何ぞ臨時に御用仰付られむもはかり難し。さらむには領国遙に隔たりて。国許の人めしよばんに急遽には来らず。すこしなりとも当地に有合ものどもにて御用を辨ぜむ為に。余人よりは多くめしつるゝなれば。これまた減じがたし。三つには頬鬚すり落さば我もさぞ心すゞしくなりなむと思へども。年若きよりこの鬚に頬当をし甲の緒をしむるに。その心地よさいふばかりなし。今かゝる御治世に出逢ても。心よさの忘れがたさに。思ひ切て剃り落しがたし。御邊が懇志もていはるゝ事を。一條も承引ぬとありてはいかゞなれど。今も申すごとくなればよく聞き分けて。あしからず思はれよ」(「東照宮御実紀附録巻十一」)
 喜田川守貞は万治の刊本には貴賤ともにヒゲのある人物を画いているのに対し、
元禄印本に所載図、これまた図中数人、貴賤ともに髭を画かず。元禄以降の物、皆鬚なし。しからば鬚を好まざること万治後なり。悉く追考すべし。(中略)
 寛永・正保中は先徒(さきかち)、若党、小者、中間の類、もみ上げの頬髭流布す。(中略)
 今世は縉紳家、武家、民間ともに皆必ず髭を剃るなり。(『守貞謾稿』)
と述べているだけで、禁止については触れていない。
 また林美一氏は次のように書いている。
幕府が大ひげを禁止したのは寛文十年(1670)のことであった。四代将軍家綱の時代である。
 大ひげというのは頬ならびに口の上下にひげを長く生やすことをさしたらしく、文字通り貴賤上下をおしなべて厳しくこれを禁じた。しかし顎の先にひげを生やすことだけは比較的大目に見られていたものか、医者・山伏・神官・人相見などには往々にして顎鬚をたくわえる者があったようである。(『時代風俗考証事典』)
 寛文十年に禁止されたのは「大ひげ」であってヒゲ一般ではないようである。
寛文十年の禁令というのは見つからなかったが、目にした禁令をあげると

元和九年(1623)四月廿六日 又令せらるゝは、大額大なで付、大剃さげ、又は下鬚、幷大刀、大脇差、朱鞘、大鐔、大角鐔停禁せらる。もし違犯のものは繋獄せしめ、其主よりは過料銀二枚出さしむべしとなり。(『台徳院殿御実紀巻五十九』)

正保二年(1645)七月十八日 此日命ぜらるゝは。刀は二尺九寸。脇差は壱尺八寸を限とすべし。大鍔。大角鍔。朱又黄の鞘。又大撫附。大額。大そりさげ。大髯。さきざき停禁せられしかど。頃日いさゝかみゆれば。再び触示さるゝとなり。(『大猷院殿御実紀巻六十一』)

 ただし、これらは当時「かぶきもの」「男たて」等と呼ばれた異様な風俗行動を禁止したものであって、ヒゲ一般を禁止したものではなさそうである。というのも四代将軍家綱が、髭を生やした家臣に働きぶりがいいと褒美を与えているからである。

牛窪権右衛門景延は黒鍬頭勤めけるが、承応年中御座間造営ありし頃、景延日毎に出仕す。もとより丈高き男の、髭さへ生ければ、御目にとまり、常に障子の透間より御覧ありて、あの髭めはよくぞ精勤す、大儀なりとて、めさせられし御紋の羽織を下し賜りし(と)ぞ。(『厳有院殿御実紀附録巻上』)
 注:厳有院=四代将軍家綱 承応=1652〜1655

守貞謾稿に「元禄以降の物、皆鬚なし」とあるように、戦国時代の遺風を一掃しようとやっきとなったーちょっと熱意が空回りしたきらいがあるがー五代将軍綱吉の頃が転機となったように思っていた。ところが彼より三代も後の吉宗の時代にもヒゲを生やした幕臣がいたようである。
さてかの館にて薬組といへるもの二十人ばかりあり。これは三河以来の御家人にて。東照宮より附たまひしものゝ子孫なるが。本城に召れし後は。締戸番といひて。昼は後閤にあり。夜は天守台のもとに宿直して常に密旨を奉り。遠近の国々を馳めぐり。くさぐさの事ども聞出して密に聞え上ければ。天下四海の間の事。不日に御耳に入けるゆへ。をのづから下に滞ることなかりしなり。(中略)
そのあと数人の名をあげたのち
「明楽樫右衛門正親は髯長く丈高く。力も衆にすぐれしかば。世人髯樫となづけておそれけり。」(『有徳院殿御実紀附録巻九』)
とある。
深井雅海氏によると、吉宗が紀州藩主から徳川宗家を継ぎ江戸城に入ったとき、紀州から家臣団を移籍させた。そのなかに身分は低いが藩主近く仕えた薬込役が十六人いる。
享保元年十月に江戸藩邸から三人、同年十二月に紀州から出府の二人、享保三年五月吉宗の母浄円院が紀州から江戸城に入る際に供奉して十一人
明楽樫右衛門正親は享保元年十二月に紀州から出府した二人うちの一人である。
「紀州藩薬込役の十六名は、吉宗の将軍家相続に伴って幕府の広敷伊賀者に任命されて三十五俵三人扶持を給され」た。「享保十一年二月にそれまで所属していた広敷伊賀者から独立して伊賀御庭番の名称を唱えることに」なった(『江戸城御庭番』)という。
「薬込役という役名は元来銃に玉薬を詰め込む役であったが、後には広敷用人に属して女中の警護を担当する大奥付の広敷役人となり、時に応じて藩主直々の密命を奉じて諸国の探索を行う隠密でもあった。」(同書)

 ヒゲの禁令が出されてヒゲを生やす武士がいなくなったのかどうかの答えはまだ得られていない。とりあえず目にしたものだけをあげておく。

 つぎに「月代」について書きたいが長くなったので次回にします。

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