落語の中の言葉64「芸人は客にせず」

            三代目古今亭志ん朝「お若伊之助」より

 一中節が習いたいという一人娘お若のために、母親で後家の女主人が出入りの鳶の頭初五郎に女師匠を頼むと、もと侍で大変に堅いものがいるので是非にと初五郎がたのむので伊之助に来て貰う。ところがこの伊之助とお若がいい仲になる。それに気付いた母親は、初五郎を呼んで、二十五両を出して二度とお若に逢わないと約束させるよう頼む。一方お若は、おかみさんの義理の兄で根岸御行の松近くで剣術の町道場を開いている長尾一角に預ける。ところが一年ほどした頃、お若のところへ毎夜男が忍んで来る。一角が確かめると伊之助。翌日初五郎を呼んで話をする。手切れ金は確かに渡したのかと聞かれ頭に血ののぼった初五郎は、昨夜は伊之助と吉原の姿海老屋で一緒だったのを忘れ、伊之助のところへ駆け付ける。伊之助に云われて思い出し一角に人違いだと告げる。その夜、初五郎に確かめさせると、昨夜のは伊之助ではないが、今居るのは間違いなく伊之助だと云う。そこで一角が、短筒で撃ち殺すと、それは伊之助ではなく、大きな狸であった。お若は身籠もっていて産み落としたのは狸の双子、すぐに死んだので御行の松の根方に埋けて塚をこしらえた。「根岸御行の松のほとり因果塚の由来の一席でございます」と志ん朝師匠は結んでいる。

 根岸御行の松は平成十五年の時点で三代目であるという。(台東区『上野・浅草歴史散歩』)
広重(東海道五十三次の初代ではなく、二代目か三代目とかいう)の江戸名勝図会には杉の大木のような姿で描かれている。デフォルメされているのであろうが、実際にそれを見た十方庵釈敬順は
画像
根岸通三輪村御行の松は、御隠殿通三股にあり、樹の太さ凡壱丈余、高さ拾丈余もあるべく、質朴〔スナヲ〕に成木して、幹の頂上は雲中に入るが如き古樹なり、伝えいふ、むかし慈覚大師此処に於て水行を修せられしに依て、御行の松とはなづけしよし巷談す、真偽の程しるべからず、此処四五間四分の間空地にして、只松一木〔ヒトキ〕のみなりしが、近頃此松の下に湯殿山不動尊を置〔スヘ〕て小堂に安じ、幟なんどを供し、辺に庭樹植ならべ、埒垣結まはして、時雨が岡御行の松とは称せり、由緒はしらず、松は古木にこそ、(『遊歴雑記初篇』文化十一(1814)年)

画像と書いている。質朴といい、高さ拾丈余ともいっているところをみると、広重の絵もそれ程誇張されたものでもなさそうである。
 また、現在御行の松には狸塚があるが元からあるものか、落語に因んであとから拵えたものか知らない。


 ところで、初五郎と一角の会話で
一角「姿海老屋といえば大変な大見世で、あゝゆう所で芸人を遊ばせるか」、
初五郎「芸人半纏着はあげねえんで。ただあっしは、あそこの旦那に贔屓になっているんで、あっしだけは内々で遊ばしてもらうんで。」、
一角「伊之助は」、
初五郎「伊之助はだめですよ、ですからね、あっしがお引けになるってえと、あいつは茶屋へさがって、朝あっしを迎えに来るんですよ」
と云っている。吉原の大見世では江戸の中頃は芸人などはあげなかったらしい。

京の女臈に長崎の衣裳を着せ、江戸の張を持せ、大坂の揚屋にて遊びたひと、古き俚言也、吉原の女臈に限り、金銀にて動ぜざりし也、仙台侯、三浦屋の高尾を身請し、召連給ふに、申かわせし男へ操を立て、侯に従はざりしかば、浅草川三派に於て、船中よりさげ截にし給ふ、あまねく人の知れる事也、又七十年程巳前、豊後節語り文字太夫といふ有、手跡なども俗筆にあらず、名筆にて有けり、三芝居にて専ら用ひられ、贔屓の人も多し、或時、吉原へ人々を具して、上通りの女臈を買て、我知り顔にて居たり、女臈暫く有て、文字太夫なるを知り、座席をはづし、金子千疋台にすへ、少しながら御肴にあげ候、ゆるゆる御遊なされ、と禿に為持出し、其身は出ず、馳走しけるとかや、流石の浄瑠璃語りなれど、赤面し立帰しと也、其頃専らの沙汰にて有し、都て上通りの遊女屋は、歌舞妓河原者には女臈を決てうらぬ定法也、又何節によらず、芝居へ出る浄瑠璃語りを呼てかたらするには、金弐分定りし也、三弦引は外にやる事也、故に千疋也し也、かく吉原の女郎は意地強かりしが、今世は、金銀をつかふものを上客とし、御髭の塵をとる由也、(小川顕道『塵塚談』文化十一年(1814)成)

馬場文耕『当世武野俗談』(宝暦七年(1757)自序)によると、この女臈は新吉原江戸町松葉屋半右衛門抱の瀬川で、「器量甚勝て此里随一の美人」であったという。揚屋町鳥羽屋正三から浄瑠璃語りの文字太夫に会ってやってくれと頼まれ、「芸者、浄瑠璃語りなどへは、勤の身にても枕はかはさぬ習ひ、子細は外の客へ障り申候、されども其許達て御申候間、ひそかに可被遣候、逢可申候」と答える。その後「文字太夫は満足して、綺麗をかざり、茶屋、船宿、たいこまざりに、松葉屋へ客と成り行ければ、頓て瀬川も出て座につき、盃などして、其後、瀬川文字太夫に浄瑠璃を望けり、日頃豊後ぶしを嫌ひし瀬川、何とも心得ずと思ふ人々もありけり」。浄瑠璃が終わると、「瀬川禿に申付、目録金子千疋台にのせ、文字太夫が前に置せ、今宵は御太儀に候なり、天晴面白く覚え候、是は謝礼にて候、酒にてもまゐり御帰り候へ、といひすて、二階より下へ瀬川は静におり」たという。
恩ある揚屋の主人に頼まれて断れず逢ったものの、客としてあげたのではなく、浄瑠璃語りを呼んで語らせたのである。
 遊女のはりについて、江戸中期頃までは、客の方でもそれをよしとしたようである。

翁が大御番務て在番する頃、三浦某若き頃(安永より二三年も昔なるべし)吉原へ行て遊びたりしに、其遊女初会とはいへど殊の外よくもてなしたりしに、こらへがたくて、其夜床花を十五両遣したり、彼女もかたじけなく思ひけるにや、明る朝帰る時、大門迄送りたり、其後ふたふび三浦行ず、友達の、左ばかりよくしたる女を何故にふたゝびゆかざると問へば、三浦がいふ、かやうかやうの次第なり、金もらひたりとて初会より送り出る女おもしろからず、とて其後尋ねもせずに置たりと云咄しを、相番の咄したり、其頃の人の心感ずるに余りあり、誠の遊びなり、今は始めより遊女の方から上まへ取て帰るべき工み計にて、其如き筋の立たる遊人は中なかなし(森山孝盛『賤のをだ巻』享和二年(1802)自序)

 また「日頃豊後ぶしを嫌ひし……」とあるのは、「いやしき文段」があるため瀬川がいましめて家内の者にかたらせず、新造、禿には、「江戸ぶし河東半太夫の艶なる文句の浄瑠璃を習ひ覚させて、客のもてなし」としていたからだという。豊後節は当時
浄瑠理昔は永閑節はやると云。いつ頃にや。土佐外記大薩摩又義太夫など流行。元文の頃豊後節はやる。この豊後節にて、世の中の風俗悪しく成しと云。(柴村盛方『飛鳥川』文化七年(1810)自序)
と云われていた。
土佐人形、明和九年二月迄、湯島天神境内に、人形芝居と歌舞妓芝居と二軒並有りて繁昌せしが、大火以後人形芝居は建ず、此土佐の人形は、衣裳は至て花やかにして、多く錦の装束也、珍敷人形にて足はなし、なれども上品の物にて、其比の流行たとへに、土佐上下に外記袴、半太羽織に義太が股引、豊後可愛や丸裸かと皆人申けり、其比は土佐節、外記節、半太夫節、義太夫、豊後、何も流行たるものなり、(山田桂翁『宝暦現来集』天保二年(1831)自序)
土佐節を上下〔かみしも〕姿に譬えると、外記節は羽織袴、半太夫節は羽織姿であるのに対し、義太夫節は半纏股引で、豊後節に至っては「丸裸か」だという。

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