落語大好き

アクセスカウンタ

zoom RSS 落語の中の言葉184「馬子にも衣装、髪かたち」

<<   作成日時 : 2018/07/20 20:35   >>

ブログ気持玉 0 / トラックバック 0 / コメント 0

     三代目三遊亭金馬「浮世床」より

 咄の中で「馬子にも衣装、髪かたち」といい、江戸時代には頭を見ると、侍、職人、商人が分かったと話している。

 江戸時代の男の髪型も時代により大きく変化している。まずは幕末の様子を『守貞謾稿』から見てみよう。

画像
今世男子髪、おほむねかくのごときなり。けだし月代を多く剃りて髪を少なくするあり、また月代を少なくして髪多きあり、鬂(びん)の高低あり、髱(たぼ)の寛急あり、髷の大小長短あり、その形種々数十種あり。図し尽すべからず。
 貴人は髪多く月代少なく、鬂高く髷大なり。下輩はこれに反する者多し。
 今三都とも市民の髷に銀杏形と云ふもの多し。大いてう、小いてう、銀杏崩し、清本いてう等、種々の名あり。
 髷名大略四、五十種に至り、しかも大同小異のみにて、大略は図のごときなり。先年は本多をもって名づくる形多く、今は銀杏をもつて名とする多し。

  そして武士と商工の違いを図として挙げている。
画像
そしてさらに
追書す。横浜開港前は市民は元より武士にても大髷流行せず。ただ大禄の武士のみ大髷なりしが、開港後武備を専らとするにより、自(おの)づから武家古風に復し大曲となる。これに因って市民・農家も大曲となる。しかれども武人の大曲のごとくにはあらず。
右に大曲と云ふは、髷形のみ大にせず、鬂髱など髪を多く月代を小にして、曲太く大形なり。(『守貞謾稿』巻之九)

 ちなみに「妾馬」で八五郎が大家さんから羽織袴を借りて着たとき、ハケ先を直すように云われるのは、職人は態とハケ先を散らしたり、曲げたりしていたからであろう。「粗忽の使者」で大工の留っこが若侍に化ける際も同じである。
 江戸時代の男の髪型として普通思い描くのはこれらであろう。

 江戸時代の男の髪型について精しく述べたものはあまり見かけない。金沢康隆氏の『江戸結髪史』も女髪が大部分であり、男髪はわずかに触れる程度(一割ほど)であるが、それによって江戸時代の男の髪型を概観すると以下のようになる。
江戸初期   個々別々で標準的髪型は存在しない
江戸前期   寛永年間(1624-44)頃から「ある種の統一」(階級別、職種別)が
         できてきた。
         月代を剃り髷を結う。「二つ折」(銀杏髷)。
江戸中期   享保から天明期(1716-89)。「大通趣味」が一般傾向。
         流行髪型、「辰松風」「文金風」「本多風」。特に本多風が
         この期の総決算
江戸後期   寛政(1789-)から。前期の「二つ折」(銀杏髷)の復活。
         但し、江戸前期とは違い、月代は狭く鬢は大きい。
         したがって髷も大きい。

 月代をし左右の毛(鬢)と後ろの毛(髱)をひとつに束ねて(髻もとどり・たぶさ、根とも云う)元結をかける。普通は三本らしい。束ねた髪をいったん後ろへ曲げてから前に折り返して再び元結を巻く(「二つ折」)。

 月代、鬢、髻、髷に着目して各時代の図をあげる。

江戸前期
画像
      左 浅草寺 「江戸名所遊楽図」屏風 寛永1624-43 より
      右 日本橋 菱川師宣画『江戸雀』延宝五年1676 より

 前期の銀杏髷は月代が極端に大きく鬢が小さい。したがって髷も小さい。糸鬢というのもあり、ほとんど坊主に近いところから坊主小兵衛と呼ばれた道化方の役者もあった。
画像

       「四場居(しばい)百人一首」元禄六年1693印本
         (山東京伝『近世奇跡考』より)

江戸中期
画像
     奥村政信「中村座芝居図屏風」享保十六年1731 より
     享保頃は前期とあまり変わらないようである。
      辰松風と文金風
画像
          『我衣』巻一上 より
銀杏髷とは様変わりで、髻を高くとって、ほとんど後ろへは曲げずに直ぐに前へ曲げている。
    本多風
画像
        左 本多風八体 恋川春町『当世風俗通』安永二年1773 より
        右 鳥居清長「出語り」天明五年1785
 時勢髪に「ほんだぶり」と振り仮名をしている。当時流行のスタイルである。

江戸後期
     文化文政期
画像
          左 山東京伝 文化十三年1816歿 享年五十六歳
          右 歌川豊国 文政八年1825歿 享年五十七歳
いずれも『新増補浮世絵類考』慶応四年(明治元年)1868 より
再び銀杏髷(二つ折)に戻り髷尻ができるが髷は細い。
     天保期以降
画像
      左 二代目白猿 歌川国貞「千社札 州崎弁財天」天保四年1833頃
      右 三代豊国&広重「東都高名会席尽」嘉永五年1852
 文政に続く天保期には、髷がやや太くなる。そして幕末近くなると髷がさらに大きく太くなっている。

 ちなみに江戸中後期の相撲も月代をしている。
相撲の髪型
画像
画像
      上、天明期 勝川春章「谷風と宮城野」天明三年1783
      下、文政期 歌川国虎「大相撲東之方」文政十年1827頃

 映画・テレビでお馴染みの男髷は、江戸の後期それも幕末時、すなわち江戸時代約260年の最後の十数年間に流行った髷のようである。どういう訳か八代吉宗の享保期はおろか五代綱吉の元禄期の劇にも幕末の髪型(あたま)で出て来る。

 最後に「チョン髷」について触れておこう。三田村鳶魚氏が詳しく書いているのでそれを挙げる。
現在では何の頓着もなく、男子の結髪さえ見れば、一様にチョン髷とばかり言っておりますが、チョン髷と申すも一個の名称であって、その型式があるのです。結髪の総称ではございません。
 チョン髷は、髷へ元結を掛けるところがごく少い、いさみな人の好みです。ですから、子供の頭は蛇の目に剃り、お奴さんといって、米噛みのところに毛が下っており、後頭部にジジッ毛というがあり、前髪は、三日月型か、半月型になっておりました。そうして、その髪が延びますとチョン髷に結います。小児のと大人のとは、チョン髷と申しても違いはいたしますが、元結の掛け方は同じです。ただ、小児のは毛が短いので掛けられないと、大人のは、掛けられるのを、好みでワザと掛けないとの差があるだけです。
 勇み肌の連中のチョン髷は、小銀杏のチョン髷です。天保以後の男子の結髪は、銀杏が基本をなしております。それから色々な名称が出来、大銀杏だとか、下馬銀杏だとか、三角銀杏・清元銀杏等の称えがありました。畢竟、髷の型が銀杏の葉のようであるから名称になったので、銀杏葉型の髷という意味に請け取ればよろしい。また、老人のチョン髷は、頭髪が薄くなりますから、小髷と申しまして、小銀杏よりもっと髷を小さく結います。前にも申した通り、毛が短いので、元結が存分に掛りません。この二点、子供のチョン髷を入れれば三点だけで、その他はチョン髷ではないのでございます。チョンという言葉が、実に巧妙に掛けた元結の有様を言い表わしているではありませんか。
「揚巻助六」の正本に、「二ッ元結のにくてらしい男、其上にねぢ上戸」というセリフがございます。二ッ元結と申すのは、根の元結を三本掛けるのが普通で、身分のある武家などは、十本も巻きます、その根の元結を好んで二本にすることをいう。根と申すのは、髻(もとどり)のことでございます。髻を執って堅く元結を掛ける。ここの元結の多少は、根の堅い軟い、締る締らぬという関係になります。生締(なまじめ)という髷のあるのも、この髻の元結からくることと思われます。執った髻を折り曲げて掛ける元結を、二の元結といい、これで髷が出来る。二の元結から先を引こいて、刷毛になります。この二の元結を、深くかけるか、浅くチョンと掛けるか、チョンと掛けたのがチョン髷なのです。(『江戸の生活と風俗』)

テーマ

関連テーマ 一覧


月別リンク

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!
ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。
→ログインへ

コメント(0件)

内 容 ニックネーム/日時

コメントする help

ニックネーム
本 文
落語の中の言葉184「馬子にも衣装、髪かたち」 落語大好き/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる