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zoom RSS 落語の中の言葉185「広小路」

<<   作成日時 : 2018/08/10 20:05   >>

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     八代目 三笑亭可楽「二番煎じ」より

 江戸の名物を詠んだ歌は咄家によって少し違う。八代目可楽師匠は、「武士・鰹・大名小路・広小路・茶見世・紫・火消・錦絵」と話している。広小路は火除地や火除堤等とともに明暦の大火後に設けられた。比留間尚氏は「広小路」(西山松之助編『江戸ことば百話』1989)の中で火除地として、一橋門外・筋違門内・上野山下・小石川富坂・四谷喰違外などを挙げ、広小路として、@小川町の広小路 A神田の広小路 B外神田の広小路 C両国広小路 D中橋広小路 E江戸橋広小路 F永代橋西詰広小路 G新大橋西詰広小路 H西の久保広小路 I芝愛宕下広小路 J宮方門前広小路(赤坂御門外) K赤羽広小路 L上野(下谷)広小路 M浅草広小路 N本郷筋広小路 O白山広小路 P元岩井町の広小路 Q長崎町の広小路などを挙げている。これらは幕府にとって重要な施設を類焼から守ることを目的としたものである。中にはその後武家地や町屋に戻ってしまったり縮小された所もある。両国橋東西の広小路や上野山下は盛り場として栄えた。
 比留間氏は
広小路の中で、創設以来、いつも江戸の盛り場として繁昌したのが両国橋の東詰・西詰の広小路だった。ここは東西の橋番請負と水防請負のための助成地となっていた。請負の内容は、出火・出水のときは、規定の人数を出して場所へ詰め、火や水の防ぎ方に精をだすこと、鯨船鞘(くじらぶねさや)の近くの出火のときは、人足を召連れて駆けつけ、御用書もの、水防道具を持ってその場を退くことなどだった。助成の内容は、広小路で営業する髪結床その他から庭銭(にわせん)(場所代)を取る権限が与えられ、それで請負の諸費用をまかなうことになっていた。
   と述べている(同書)。
橋番請負と水防請負に触れると長くなるため、ここでは両国橋西詰の広小路の使われ方に絞って採り上げたい。

 両国橋西詰の広小路は、切絵図「日本橋北神田浜町絵図」には広々と書かれているが、実際は通路になる部分を除きほとんどは葭簀張りの茶屋・見世物小屋等及び商い床に埋め尽くされていた。
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     上、切絵図『日本橋北神田浜町絵図』、中、『江戸名所図会』より
      下、北尾政美『江戸両国橋夕涼之景』寛政前期1789-1801

 天保改革時の『市中取締類集』や文政十一年の『町方書上』などに基づいて江戸東京博物館の「両国橋西詰復原模型」の設計をした波多野純氏は『復原・江戸の町』で西詰広小路の権利関係及び模型配置図として次の図を挙げている。
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 両国橋西詰の請負助成地にある商床等は延享四年1747の時点では次の通りである。(『都史紀要42江戸の広小路ーその利用と管理』平成26年)
*西橋番請負助成地
 両国橋西広小路之内
一髪結床              拾七株
 同断
一渋紙葭簀張日除ケ商ひ床  三拾ヶ所
 同断
一同弐間四方物見世場     三ヶ所
 同所髪床之後
一同弐間ニ三間宛商ひ場所  弐ヶ所
 同断
一同幅九尺ニ長四間土弓場  壱ヶ所
  都合五拾三ケ所

*米沢町水防請負助成地
一渋紙葭簀張り日除ケ商ひ床  弐拾五ヶ所
  拾三ヶ所者 間口九尺ニ奥行五尺宛
  拾弐ヶ所者 間口弐間ニ奥行五尺宛
  但、植木売菓子売小間物類喜世流売煮売雪駄其外品々商売人罷出候
一同弐間ニ三間宛物見世場    四ヶ所
  但、売薬弘メ之為講釈浄瑠理見世物召出候
 同所下ノ御上り場前通
一幅五間ニ長弐拾三間余、此坪数百三拾坪余之所、涼腰掛ケ台水茶屋員数定り不申、右間数之内江出次第差置申候
 右葭簀張商ひ床幷御上り場前通涼腰掛ケ台差置候場所間数書上申候通相違無御座候、尤広小路之内江罷出候荷ひ商人之儀者日々増減御座候ニ付、員数定り不申候間、人数相知不申候、

 広小路の店は「葭簀張り日除」と「商い床」に分けられる。
『都史紀要42 江戸の広小路―その利用と管理』には次のように書かれている。
 両国橋広小路を含め、江戸の路上において展開する店舗、つまり露店の形式を大別すると、床店と葭簀張の二種類に分かれる。
 主として板材を用いて、屋根(庇)と背面・側面の壁を作り、また床も敷くかたちの店舗が床店である。商人はその店舗内部にいて商売をする。商品の陳列も、床の上に台を置くか軒下に吊るすなどして、店舗内部でおこなう。客はその店舗前の路上にいて、店舗内の商品を眺めて商人とやり取りをおこなうことになる。
 基本的に、物品販売をする露店は床店の形式を採る。物品販売以外だと、髪結床のように限られた数の客を店舗内に入れて営業する場合がある。
 葭簀張は、まず地面に支柱を立てて骨組みを作り、その上部や側面を葭簀で覆い囲んで店舗とする。床は張らない。
 床店とは異なり、客をその店舗の内部に入れて営業するのが一般的である。例えば、茶屋のような飲食業が葭簀張を用いて営業する。あるいは、土弓のように客を店内に入れる遊興施設が葭簀張で作られる。また、芝居や見世物などの興行も、大規模な葭簀張を設置して、その内部に観客を入れておこなわれる。
 
 「葭簀張り日除」は、元々は昼間のみ設置して、夜は取払わなければならなかった。また御成の節は前日に取り払い、其他御用の節は指図あり次第取り払うことになっていた。
   差上申証文之事
一両国橋西之方橋番所請負人吉川町家主四郎兵衛・米沢町名主喜左衛門申上候、右御橋西番所壱ケ所・同御橋中番所壱ヶ所・新大橋西番所壱ケ所・同中番所壱ケ所、以上四ケ所新規御普請修復幷番人給金油代共ニ前々ゟ御入用ニ而御座候処、十九年以前亥年(享保四年1719)私共両人御願仕、広小路髪結床幷商人庭銭之助成ヲ以右御入用之分一式御請負申上相勤来り申候、尤其節請負証文差上、其上言上御帳面ニも相記申候、其後九年以前右場所ヲ願人御座候故、右之外増御忠節ニ、御成之節御橋幷広小路江灯候御挑灯八張新規張替蝋燭共御入用ニ而御座候処、是又自分入用を以一式御請負仕、且又満水之節右御橋水防人足三拾人宛差出シ、御用無御手支相勤可申旨奉願候処、願之通被仰付今以相勤申候、然所ニ広小路商人庭銭之助成時節柄故減少仕迷惑ニ奉存候ニ付、此度奉願上候ハ、髪結床之後ニ空地御座候、此場所之内江弐間ニ三間宛之葭簀張り日除弐ケ所、昼之内計売薬等致候者差置キ、夜者取払候様ニ仕度奉願、右為御忠節只今迄御請負之外ニ満水之節増シ人足弐拾人差出シ、都合五拾人早々差出シ、其外者前書之通弥無御手支様ニ相勤可申候、尤御成之節者前日ゟ取払可申候、其外御用之節ハ御差図次第ニ何時成共取払可申候間、此度右弐ヶ所之日除御免被成下候様ニ当四月廿日筑後守様江絵図訴状ヲ以御願申上候得者、段々御吟味之上今日下野守様御内寄合江被召出、願之通り日除御免被仰付難有奉存候、右御請負之品々弥無滞相勤可申候、尤日除ニ棟ヲ立不申、其外目立候儀無之様ニ仕、御成前日ニ者急度取払可申旨被仰付奉畏候、右之段少茂違背仕間敷候、言上御帳面ニも記置候様ニと被仰渡、則今日右之趣御帳面ニ記置申候、為後日仍如件

  元文二巳年1737五月十八日      両国橋西橋番請負人
                            吉川町家主
                              四郎兵衛印
                            米沢町名主
                              喜左衛門印  (同書)

 「売薬等致候者」とあるのは、小芝居などを指す。芝居は江戸三座(山村座廃止までは四座)と宮地芝居だけが許可されていた。広小路などにある小芝居は「売薬」を本業とし、客寄せのために芝居をするという名目である。

   乍恐以書付申上候
一両国橋西橋番請負人申上候、私共助成地葭簀張日除之儀者御免之場ニ而夜分計取片付候処、
此節右葭簀張不取片付、其儘差置候場所も有之趣幷荷商人共儀往来江出張差障りニ相成候趣御尋御座候、此義私共心附候儀ニ御座候得共、夏之内者前々ゟ水茶屋其外商人共夜分も罷出、四時頃仕廻候ニ付、短夜之儀故自然与葭簀張取片付方等閑ニ罷成、且毎朝六半時ゟ五時頃迄近在所々ゟ前栽物持寄り市有之処、右商人共義荷籠道幅御傍示石ゟ往来江出張不申候様為仕候得共、夏之内者前栽もの多候ニ付出張候様ニ罷成、右両様未熟之段御察斗請奉恐入候、以来右体等閑ニ無御座候様為仕、葭簀張之儀夜分者為取片付、幷毎朝前栽物市ハ暫時之内故荷籠出張不申候様急度可申付候間、此度之儀者何分御慈悲を以御聞済被成下候様奉願上候、以上
  寛政六寅年1794七月          両国橋西橋番請負人
                            吉川町家主
                               次郎兵衛印
                            名主
                               喜左衛門 (同書)


 夜間取払うはずの葭簀張日除がそのままになっているところがあると指摘され、今後はそうしたことのないようにするので、この度は宥免してほしいと願い出ている。
ちなみに「夏之内者前々ゟ水茶屋其外商人共夜分も罷出、四時頃仕廻候ニ付」とあるが、五月二十八日から八月二十八日まで夜間営業が許可された。その期間以外は日暮れまでである。この夜間営業の開始する五月二十八日を川開きという。
一方「商い床」は夜間もそのままで、御成や命令があった時に取払えばよかった。

   乍恐以書付申上候
一両国橋水防役茂兵衛外四人申上候、私共御請負助成地同所広小路下之御上り場前水茶屋向通葭簀張商人差置候場、近キ頃明キ地多ク罷成難儀仕候ニ付、別紙絵図面之通間口弐間奥行壱間之新規髪結床商床五軒差置申度奉願上候、右床取置ニ仕、御成之節者取払、平日共往来之障ニ相成不申候様可仕候ニ付、何卒以御慈悲願之通被為仰付被下置候者難有奉存候、以上
  天明六午年1786六月二日       両国水防行事
                            米沢町壱丁目家主
                            願人  茂 兵 衛印
                            外略     (同書)

「葭簀張り日除け」が昼間だけで夜間は取り片付けであったのは幕末まで続いのか、それともその後「商床」と同じになったのかは分からない。

また「毎朝六半時ゟ五時頃迄近在所々ゟ前栽物持寄り市有之」とあるが、これは両国橋が架かる前からのことである。
   西広小路ニ而毎朝青物市之訳
一広小路青物市之儀ハ、米沢町壱丁目家主次郎兵衛・同人店佐太郎・深川伊勢崎町太兵衛店六兵衛、右三人之もの共青物問屋与申名目ニ而、両国橋無之已前ゟ前栽もの引受、右場所ニ而日々取捌候処、橋番受負助成場ニ相成候後者相対を以借受、壱ヶ月弐貫百八十文宛地代差遣、口銭之義者壱荷ニ付売人ゟ四文、買人ゟ四文与申極ニ致し来、売人ゟ四文宛取立候得とも、買人ハ壱荷を分ケ候而買取候ニ付、見計壱弐文宛も取立候間、極通りニハ取立相成不申候由、右人数之義も売人買人を合候ハヽ毎朝百人余も集り可申候得とも日々ニも増減有之、冬向ハ人数格別減少致候由、右三人共数代株式相続致候由ニ御座候 (同書)

 この青物市について、柴村盛方『飛鳥川』(文化七年1810)には
両国広小路に昔朝々菜の市出る。然る処近年は広小路へ一円野菜持出し、其外塩もの類塩出しをして色々出る。又料理に直に遣ふ様に切割をして出すも有。見物事也。
とある。「広小路へ一円野菜持出し」たのであれば、「葭簀張り日除け」のすべてかどうか分からないが文化の初め頃は夜間取り片付けは続いていたのであろう。

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