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zoom RSS 落語の中の言葉187「酒」

<<   作成日時 : 2018/09/20 20:01   >>

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 落語には酒がよく出て来るが、どんな酒であったのかがわかるものは少ない。
  澄んだのか濁ったのか (三代目三遊亭金馬「居酒屋」)
  甘口、辛口、酸ぱ口  (三代目三遊亭金馬「居酒屋」)
  番茶を薄めて酒代わり (五代目柳家小さん「長屋の花見」、
              三代目三遊亭金馬「節分」)

江戸で飲まれた酒の大部分は下り酒であった。下図は「江戸積銘酒名寄番付」
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 一年中行われていた酒造りが、品質の良い酒を造るために江戸時代には「寒造り」に収斂していったという。現在の酒造りの工程を表した図は次ぎに通り(秋山裕一『日本酒』より)。基本的には江戸時代のものを踏襲しているという。
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この工程のうち醪(もろみ)が出来上がるまでは複雑なので省略して、醗酵が終わった醪は、これを搾って酒と酒粕にするが、その部分は次のようにいわれる。
冷え過ぎるのを待ち、須加利(すかり)つまり酒を濾す布嚢を酒舟(槽)の中に填(うず)め、その酒水が半ば滴るほどになって、復(また)布嚢に入れて圧すれば、酒は自然に滴り出てくる。滴り尽きた後に汁を取り滓を去る。これを新酒というのである。(『本朝食鑑』穀部之二 元禄五年1692自序)

別に木灰一升を酒三升の中に投入し〔よく澄むのをまって渣(おり)を去る〕、総醅(もろみ)と和(まぜあわ)せ、袋に入れて槽(おけ)にならべ、汁を醡(しぼ)り清酒にする。大体、八石ばかりが得られる。渣(おり)を去って用いる。(『和漢三才図会』巻第百五 正徳二年1712自序)

滓引(おりび)き火入れ しぼりたての酒は、白く濁っています。これを、約一週間おいて沈殿させ、上澄みを他の桶へ移す作業が滓引きです。そして、殺菌や熟度香味などの調整のために、酒を釜に入れて約六十度に加熱します。これを火入れ(煮込み)といいます。
貯蔵 火入れの終わった酒は囲い桶(貯蔵桶)に入れ、酒の上に浮いている泡をすくい取り、フタをします。この時、フタの上に、重石を十個並べ、桶とフタを密着させ、秋まで貯蔵するのです。(白鶴酒造資料館、昔ながらの酒造りの説明)

圧搾から火入れ 醪は二五、六日内外で醗酵を終るから、その時に、袋に入れて、これを「酒槽(さかふね)」の中に積み、上から圧搾する。圧搾機は近頃は連続式のものも使われる。このようにして出て来た酒は、米のとぎ汁のようにうす濁りの、いわゆる新酒で、これを貯蔵桶(今はホーロー引きタンク)に入れておくと、濁りは底近くへ沈むから、桶の底に残った滓酒(おりざけ)を残して上澄を取る(おりびき)。滓酒は昔はそのまま濁り酒の一種として市販されて、一部の酒徒に珍重されたが、今は濾過機にかけるので、これは出なくなった。おりびきされた酒は四月上旬頃に火入れをして、貯蔵タンクに入れられて熟成の眠りにつくのである。(坂口謹一郎『日本の酒』1964)

 曲亭馬琴編藍亭青藍補『増補 俳諧歳時記栞草』(嘉永三年1850序)には秋之部 八月のところに酒に関する次の季語が載っている。
新走(あらばしり) 新酒の尤早きものを新走と云。
濁酒(にごりざけ) 醪(らう)は汁滓(しるかす)の酒なり。和名毛呂美(もろみ)。今俗、濁酒と云。
中汲酒(なかくみ) 半清半濁の称なり。
酴釄醁(どびろく) 〔大和本草〕酴釄(こやをき)花の条下に云、本邦のは白花、千葉菊(やへぎく)の如し、依て筑紫にて菊いばらといふ。中華には黄色なる者ありと、農政全書に記せり。故に黄色の醁(にごりざけ)を酴釄醁といふ。

 『物類称呼』(安永四年1775自序)には「ときんいばら」の項目に次のようにある。
 ときんいばら ○畿内にて○ごやをぎと云 江戸にて○ときんばら又○ぼたんばなといふ 西国にて○きくいばらと云
 案に 花は白牡丹に似て小なる物なり 故にぼたんばなといふ歟 又とびろくといへる酒は此花の色に似たりとて、或は酴釄漉(どぶろく)或は酴釄緑(とびりよく)等の説有 松岡氏 とぶろく は濁醪の転語かといへり 〔文選〕に濁醪(だくらう) にごりさけと訓(くん)ず 関西にて どびろく と云 関東にては どぶろく とも にごりさけ 共いふ 松岡氏の説によるべきか

 これでみると、江戸時代には漉す前のものをにごり酒、又関東では「どぶろく」と呼んでいたようである。滓びきの際、上澄みをすみ酒、底に溜まった濁りの多いものを滓酒、その中間を中汲といったのであろうか。現在は搾る前の醪そのももを「どぶろく」といい、にごり酒はわざわざ目の粗いものを使って濁るように漉したものを云うらしい。江戸時代と現代では言葉は同じでも指すものは違っているようである。
ところで『本朝食鑑』にも『和漢三才図会』にも「火入れ」は出てこない。「火入れ」は酵素の働きを止め、火落菌(ひおちきん)をはじめ生き残ったカビ細菌を殺菌して酒の変質を防ぐためである。室町末期には一部では行われていたというが、江戸初期にはまだ一般に普及していなかったのであろうか。

 江戸の飲酒量は大変多かったようである。
大衆文化の栄えた江戸時代は、日本酒が大いに飲まれた時代でもあった。一〇〇万人の住むお江戸に、年間、数十万樽から百万樽の四斗樽が運ばれたというから、単純に計算して一年間に女性子どもも含めて一人当たり一樽、七二リットルを飲んだということになる。今日、酒類の消費量についての国税庁発表の統計によると、成人一人当たり、日本酒は一五リットル、全酒類の合計を日本酒量に換算すると約六〇リットルということである。(秋山裕一『日本酒』)

*江戸の町方人口 大石慎三郎『江戸時代』には 
 最初の調査 享保六年十一月 五〇一、三九四
       享保十年六月  四七二、四九六
とある。これは町奉行所支配地のみで、寺社奉行支配地の住民は含まれていない。享保期以降武家と町人の合計の江戸の人口は百万人を越えたと云われるが、町人人口はまがりなりにも調査があるが、武士の数は全く不明である。町方とほぼ同数いたであろうという推計にすぎない。

 *酒の江戸入津数 『享保世説』 三田村鳶魚『江戸の生活と風俗』
 酒をはじめとする十二品目の年間入津数について
 去午年入津分、船数合七千四百二十四艘 但、武家荷物、問屋之外相知レ不申候
 一、酒七十九万五千八百五十六樽
 右之通、諸国より入津之分斯の如し、町奉行所江書上、例年多少有之処、午ノ年中諸式入津 余程減少之由。

 前年より余程減って八十万樽弱。この数量は問屋が受け入れたものだけである。大名などは領地から運ばせているものもあろうし、江戸の酒屋でも関東周辺から買い入れている酒も少量ではあろうがあったはずで、それらを含まない数字である。

 また大酒大食について書かれたものも多い。
たとえば加藤曳尾庵『我衣』巻十二(文化十四年1817)には次のようにある。
太平日久しければ、逸民□楽に耽り、はだし(ママ)の事をぞなしにけり。両国柳橋萬八楼にて今とし三月の比、大酒大食の会あり。其連席にて、抜群なる人の分を算ふるに、
   酒 組
一、三升入盃にて三ばい 〆九升        小田原町 堺屋忠蔵丑六十八
  直に連衆ヘ一礼を演て帰る。
一、三升入杯にて六ぱい半 〆壱斗九升五合   芝 口  鯉屋理兵衛丑三十一
  其儘倒れ除程の間休息いたし、茶碗にて水十七はい呑む。
一、五升入の丼にて壱ぱい半 〆七升五合    小石川  大坂屋喜左衛門丑七十二
  直に罷帰る。聖堂前の土堤に倒れ、明七ッ時過帰る。
一、五合入の盃にて十一杯 〆五升五合     本所石原町みのや義兵衛丑五十一
  跡にて飯三ばい、茶九はい。甚九を踊る。
一、三合入杯にて二十七盃 〆八升壱合     金 杉  いせや傅兵衛丑四十七
  跡にて五大力を唄ひ、茶十四盃。
一、壱升入盃にて四盃半 〆四升五合      山の手  御やしき丑六十三
  跡にて東北を謡ひ一礼演て帰宅。
一、弐升入盃にて三盃半 〆七升        名  闕
  跡にて少しの間倒れ、目を覚し砂糖湯七盃。
 外に酒輩三四十人あれ共不記。二三升の量なれば也。

酒組の外に菓子組、飯連、鱣組、蕎麦組もあるが省略する。この大酒会については「文化秘筆」、「兎園小説」、「道聴塗説」にも記載がある。
 ただし、この話は嘘である。『文化秘筆』の最後には「右文化十四丁丑年三月催之、此書付酒井若狭守様ノ御家来松本大七方ヨリ借写置処、其後承候ヘバ、虚説ノ由。」とある。
 三田村鳶魚氏(「虚月(うそつき)爺二郎のモデル」『娯楽の江戸』)によれば、化政期から嘉永の初めに至る約五十年間盛んに嘘談が流行した。「嘘突村は那地(いずち)でもない、江戸がすなわち嘘突村である。江戸は嘘を楽しむ都会である。」

 一人当たりの飲酒量の多さや大酒会の酒量、また水っぽい酒などの話から、江戸の酒は現在と比べアルコール度が低かったのかと思っていたところ、逆だったようである。
 酒の成分分析が最初におこなわれたのは明治十年という。その時の成分内容と現在の物を比べた表が坂口謹一郎『日本の酒』に載っている。そこから明治十年・昭和三八年・平成五年のものを紹介する。

市販清酒の組成
          アルコール エキス   酸度  清酒メーター
 明治10年花 盛  17.44   2.33   6.95  +18.0
 昭和38年一級酒  16.15   6.26   1.53  − 6.3
 平成05年市販酒  15.4    4.99   1.27  + 1.2

アルコール:容量のパーセント
エキス:酒中の固形分、主として糖分
清酒メーター :比重計で水を0とし、プラスは辛口、マイナスは甘口

酒の成分の上からは、糖分が多ければ甘いし、少なければ辛いことは、一応の理屈だが、酸やアルコール、ことに酸が多いと、たとえ糖分が多くても辛く感ずる。これは舌の味蕾の甘味に対する感受性を、酸が抑制するからである。それゆえ、酸が少ないと、たとえ糖分が少なくても甘口となる。(中略)
 清酒の分析がはじめてなされたのは、明治10年(一八七七)、東京帝国大学農科大学英人教師エドワード・キンチ氏による。これを近頃の市販清酒と比べてみると、これが果たして同一の種類の酒といってよろしいかと疑うほどである。とにかく、成分の上からは、前者が著しい辛口を示し、後者が大へんな甘口である。このような背景に立つとすると、明治維新のころに「これは甘口」といわれる酒でも、今の人がもしなめて見れば、口の曲がるほどの辛さを感じるであろうことも想像に難くない。(同書)


 江戸時代の酒の成分は分からないが、明治初めの物は江戸時代の物とあまり変わっていないとすれば、江戸時代の酒はアルコール度も高く、糖分も少なく酸度は大幅に高いことから、現在と比べ、超辛口だったと思われる。
 また「酸ぱ口」というのは醸造に失敗したか、あるいは火入れ後の熟成中に日本酒好きの乳酸菌「火落菌」が混入して増殖したためかであろう。この「火落菌」というのは変わった菌で、完全培地でも増殖しないが、そこに日本酒を加えると猛烈に増殖するという。ウイスキーではだめで日本酒に限るそうである。
 また、江戸時代のすみ酒にはわずかに色が付いていたようである。「長屋の花見」で番茶を薄めて酒代わりにしているのもそのためであろう。現代の清酒は無色透明のものが多いが、これは活性炭を使って脱色しているからで、活性炭を使わず薄い琥珀色、山吹色の清酒を造っているところもある。
 また「水っぽい酒」という言葉も落語には出て来るが、酒に水を加えて売る酒屋もあったのであろう。ただこれは随分昔からのことである。
昨日は今日の物語云、奈良の伊勢屋といふ酒屋、やす酒には水を入て売ければ、或人是を買ひ、伊勢屋の酒はさんざんあしきとて、狂歌をよみける。「酒の名も所によりてかはるなり伊勢屋の酒はよそのどぶろく。伊勢屋是をきゝ返し、「よしあしといふは難波の人やらんおあしをそヘてよきをめされよ。按ずるに、酒に水を入るゝは久しき事なり。日本霊異記に、酒加水多沽多取直。(北 静廬『梅園日記』弘化二年1845刊)

  引用者註:『日本霊異記』は上中下三巻で下巻の序は延暦六年787。

 酒に水を加えることは昔に限らない。現在の日本酒も水を加えている。醸造した日本酒のアルコール度は20パーセント前後で、飲みやすくするために水を加え15パーセント前後にして販売されているのである。

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