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zoom RSS 落語の中の言葉188「てんぷら・上」

<<   作成日時 : 2018/10/10 20:10   >>

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      古今亭志ん朝「宿屋の富」より

 神様が夢枕にたったという若い男は、二番富の五百両が当たったら吉原の馴染みの遊女(おんな)を身請けして所帯を持つ、景気がいいからお膳の上もお銚子が一本に刺身があって、天麩羅があって、鰻があって、お椀があってと話をする。

 江戸時代のてんぷらについてよく云われることは、家康が鯛のてんぷらを食べたのがもとで死んだという説、山東京伝の「天麩羅」命名説、屋台で串に刺して食べる低級な食べ物であったという説などである。これらについて少し考えてみる。

 1、家康と鯛のてんぷらについて。
まずは徳川幕府が編纂した「徳川実紀」を見る。なお「徳川実紀」というのは通称である。吉川弘文館『新訂増補国史大系』第三十八巻「徳川実紀 第一篇」の凡例には次のように書かれている。

一、徳川実紀は家康以来家治に至る江戸幕府将軍の実紀にして、一代ごとに将軍の言行逸事等を別叙し、之を附録とせり。大學頭林衡總裁の下に成島司直旨を奉じて撰述し、文化六年1809に稿を起し、嘉永二年1849に至りその功を成したり。總じて之を御実紀と称し、各代将軍の廟號に因りて題し、東照宮御実紀を始め、台徳院殿御実紀以下浚明院殿御実紀に終る。今こゝに徳川実紀といへるは、世に行はるゝ通称に従ふなり。(以下略)
  昭和四年九月          黒板勝美 識
 
『東照宮御実紀附録』巻十六。
元和二年1616正月廿一日駿河の田中に御放鷹あり。そのころ茶屋四郎次郎京より参謁して。さまざまの御物語ども聞え上しに。近ごろ上方にては。何ぞ珍らしき事はなきかと尋給へば。さむ候。此ごろ京坂の辺にては。鯛をかやの油にてあげ。そが上に薤(にら)をすりかけしが行はれて。某も給候にいとよき風味なりと申す。折しも榊原内記清久より能濱の鯛を献りければ。即ちそのごとく調理命ぜられてめし上られしに。其夜より御腹いたませ給へば。俄に駿城へ還御ありて御療養あり。一旦は怠らせ給ふ様に見ゆれども。御老年の御事ゆへ。打かへし又なやましくおはしまして。はかばかしくもうすらぎ給はす。(以下略)

元和二年四月十七日巳刻 大御所駿河城の正寝に薨じ給ふ。台寿七十五。(以下略)(『台徳院殿御実紀』巻四十二)

 これにつき三田村鳶魚氏は「天麩羅と鰻の話」で次のようにいう。
『武徳編年集成』の方で見ますと、柏(かや)の油でよく揚げて、それをまた熬(い)る、その上に薤(にら)を摺り掛けて食べるのが非常にうまい、と書いてある。同じ茶屋四郎次郎の話を書いたのですが、『慶長日記』の方は胡麻の油、『武徳編年集成』の方は柏の油で、少し違っておりますけれども、魚肉を揚げて食うということに変りはない。これが元和の頃に京都ではやっておった。テンプラという名はどこにもありませんが、物はまがう方もないテンプラです。(後略)

 混乱を避けるため、「てんぷら」という言葉と、料理を区別して考える。ここでは、魚肉等に小麦粉の水溶きをつけて植物油で揚げたものを「今日の天麩羅」と呼ぶことにする。
 鳶魚氏は「まがう方もないテンプラです」と書かれているが、ただ鯛を植物油であげたというだけで、小麦粉の水溶きをつけたとは書かれていない。何も付けないで揚げても、また小麦粉を粉のまままぶして揚げても素揚げや唐揚げであって「今日の天麩羅」ではない。また鯛を「切り身」にして揚げたのか「すり身」にして揚げたのかも不明である。したがって「今日の天麩羅」と断定することはできない。

 2、山東京伝の命名説について
それは次のようなものである。
岩居に語て曰、今をさる事五十余年前天明の初年大坂にて家僕四五人もつかふほどの次男年廿七八ばかり利助といふもの、その身よりとしの二ツもうへの哥妓(げいしや)をつれて出奔し、江戸に下り余が家の対(むか)ひの裏屋に住しに、一日(あるひ)事の序(ついで)によりて余が家に来りしより常に出入して家僕のやうに使などさせけるに、花柳に身を果したるものゆゑはなしもおもしろく才もありてよく用を弁ずるゆゑ、をしき人に銭がなしとて亡兄(京伝)もたはむれいはれき。ある日利助いふやう、江戸には胡麻揚の辻売多し、大坂にてはつけあげといふ魚肉のつけあげはうまきものなり、江戸にはいまだ魚のつけあげを夜みせにうる人なし、われこれをうらんとおもふはいかん。亡兄いはく、それはよきおもひつきなりまづこゝろむべしとて俄に調(てう)じさせしに、いかにも美味なり。利助いはく、これを夜みせの辻にうらんにその行灯に魚のごまあげとしるさんもなにとやらまはりどほし、なにとか名をつけて玉はれと乞ひければ、亡兄しばらくあんして筆をとり天麩羅とかきてみせければ、利助不審の㒵(かほ)をなし天麩羅とはいかなる所謂(いはれ)にかといふ。亡兄うちゑみつゝ足下(そこ)は今天竺浪人なり。ぶらりと江戸へきたりて売創(うりはじむ)る物ゆゑに天ふらなり、是に麩羅といふ字を下したるは麩は小麦の粉にてつくる、羅はうすものとよむ字なり。小麦の粉のうすものをかけたといふ事なりと戯言(たはむれごと)云れければ、利助も洒落たる男ゆゑ、天竺浪人のぶらつきゆゑ天ふらはおもしろしと大によろこび、やがて此店をいだす時あんどんを持ちきたりて字をこひしゆゑ、余がをさなき時天麩羅と大書して与へしに此のてんぷら一ツ四銭にて毎夜うりきるゝ程なり。さて一月もたゝざるうちに近辺所々にてんぷらの夜みせいで、今は天麩羅の名油のごとく世上に伝染(しみ)わたり、此小千谷までもてんぷらの名をよぶ事一奇事といふべし。されども京伝翁が名づけ親にて利助が売はじめたりとはいかなる碩学鴻儒の大先生もしるべからず。てんぷらの講釈するは天下に我一人なりとたはむれければ、岩居も手をうちて笑ひけり。(『北越雪譜』二編巻之二 天保十二年1841刊)

 『北越雪譜』の初編(上中下三巻)は越後塩沢の鈴木牧之の原稿を山東京山(京伝の実弟)が「其駁雑(はくざつ)を刪(けづ)り、校訂清書し、図は豚児(セガレ)京水に画(ゑがゝ)しめしもの」である。二篇(四巻)は牧之の稿本の残冊を京山が校訂し、さらに「百樹曰」として書き加えたもの。百樹とは京山の本名。さきに引用した部分も「百樹曰」の部分である。京山が越後塩沢の鈴木牧之を訪ねて逗留した時に、牧之の親族である小千谷の岩居宅へ行き、そこで出された鮭のてんぷらを、この地では何と呼ぶかと尋ねたところ、岩居はテンプラと呼ぶが、その名義が分からず、古老に尋ねてもわからず、京山に説を求めたのに対して答えたものである。そして京山は後に『蜘の糸巻』(弘化三年1846)にも同様の話を書いている。

 ところがこの説はそのままは信じられないという。浜田義一郎氏は『江戸たべもの歳時記』で
 蜀山人が若いころ書いた文章にも、
 左に盃をあげ、右にてんぷらを杖つきて……(「から誓文」)
とある。このテンプラも串ざしらしい。なおこの文章は京伝の天麩羅以前から江戸にテンプラがあったことを証明する。

  と書かれている。「蜀山人が若いころ」とあるが何時なのかはっきりしない、大田南畝は寛延二年1749生まれで最初の出板(木版印刷なのであえて「板」という文字を使っています)は明和四年1767(十九歳)の狂詩文『寝惚先生文集』である。

 また三田村鳶魚氏は『娯楽の江戸 江戸の食生活』で次のように云う。
 ところで、京山の書いた天麩羅の説については、『江戸名所図会』を拵えた斎藤月岑が駁論を提出しております。それによると、京山の言うことは間違いで、天麩羅という名は、天明年間に始ったのではない、安永十年1781正月の豊竹座の『昔唄今物語』という浄瑠璃に、この言葉が出ている、だから安永以前にもうあったのだ、というのです。私は前から、京山が兄貴を担(かつ)いで書いた説が、変だと思っていたところだから、月岑の言う丸本が見たいと思って、十年ばかり方々捜してみたけれども、なかなかない。ようやく去年になって、御徒町の吉田の店で手に入れることが出来た。これはありがたい、どこにあるかと思って読んでみると、第三段目の雲助の悪がお客に文句をつけてゆすろうとするところに、
 此辺でも人の知った生揚の権と云男じゃ、コリャ天麩羅よ、我に怪我さした養生代に、奴殿は切とやい。
ということがある。そこを通りかかった奴と駕籠舁との喧嘩がなぎれて、混雑することを書いたもので、駕籠舁の中にも、生揚だの、天麩羅だのということを諢名(あだな)に使っている。いかにも、月岑の言う通り、天明度にはじまったものではない、それ以前から十分に行われていたことはこれでわかります。
 引用者註:安永十年と天明元年は同じ年である。安永十年1781四月十三日、天明へ改元の江戸町触があった。

『昔唄今物語』の作者が「天麩羅」という漢字を京伝より前に使っていたことは確かである。豊竹座が江戸の浄瑠璃座であれば、鳶魚氏の云うとおり京山の説はおかしなことになる。しかしもし大坂だとすると少し違ってくる。
幕末の「守貞謾稿」には
 半平 はんぺいは蒲鉾と同じく磨肉なり。椀の蓋等をもってこれを製す。蓋半分に肉を量り、故に半円形なるをもって名とす。
 京坂にては半平を胡麻油揚げとなし、号けててんぷらと云ひ、油を用ひざるを半平と云ふなり。江戸にはこの天麩羅なし。他の魚肉・海老等に小麦粉をねり、ころもとし、油揚げにしたるを天ぷらと云ふ。この天麩羅、京坂になし。これあるは、つけあげと云ふ。(「守貞謾稿」後集 巻之一)
とあるからである。幕末の頃には、関西で「てんぷら」と云うのは半平の胡麻油揚げであり、これは江戸にはないと云う。安永の頃もそうであったとすれば『昔唄今物語』の「天麩羅」は半平の胡麻油揚げだったということになる。そもそも「てんぷら」という名の料理は安永十年1781よりずっと前からあった。寛延元年1748出雲寺和泉掾刊の『料理 歌仙の組糸』に「てんぷら」(平仮名)の料理法が載っている。大坂で半平の胡麻揚げに「天麩羅」という文字が使われていたことを京伝が知っていたかどうかはわからないが、それまで江戸にはなかった魚肉の胡麻揚げに京伝が「天麩羅」と名付けたとしてもおかしくはない。

 3、江戸のてんぷらは屋台で売られる低級な食べ物であったという説
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 屋躰見世、すゑみせにて、不用の時は他に移す。
 屋躰見世は鮓、天麩羅を専らとす。その他皆食物の店のみなり。粗酒肴を売るもあり。
 菓子・餡餅等にもあれども、鮓と天麩羅の屋躰見〔世〕は、夜行繁き所には毎町各三、四ヶあり。因みに云ふ、天麩羅は自宅にて売るにも必ず宅前にこれを置き、鮓店にはあるひはこれを置き、あるひは置かず。(『守貞謾稿』巻之五)

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  歌川広重「東都名所高輪廿六夜待遊興之図」天保後期 より

 『北越雪譜』には一つ四銭とあり、『江戸春一夜千両』(山東京伝作、天明六年1786刊)にも一つ四銭で丁稚が買っている。
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 てんぷら屋台の客は、丁稚や仲間などが多かったようである。
 ちなみに同じ屋台見世でも鰻は一串十六文と十二文であった(『旧観帖』三編 文化六年1809刊)。

昔は少しましな人になると、立食いは決してやらなかった。天麩羅が江戸に現れた時、天麩羅という名は、あったか、なかったか知りませんが、立食いの食物になっていたことはたしかである。江戸で食物の屋台店を往来へ出すようになったのは、天明五年1785からのことで、その時には天麩羅ばかりじゃない、いろいろなものがそうなったのですが、天麩羅も正にこの時をもって街頭に進出したのです。京都で歴々の人々が珍しい食物として饗応し合った頃からみると、丁度百六十何年という隔りがある。前には、相当な食物、前将軍の家康でさえ珍しがったものが、今度は立食いの代物に下落した。この間の経過がわかればおもしろいのですが、私はまだそういう資料にぶつかりません。(三田村鳶魚「天麩羅と鰻の話」『娯楽の江戸江戸の食生活』)

 この屋台見世のてんぷらはたいそう流行ったらしい。
文化四年1807八月の永代橋崩落に関する書留を蒐集した太田南畝編の『夢の浮き橋』には次のように書かれている。
一、人形町茶漬茶屋の向ふに、やたい見世にて油のてんぷらを商ふ者あり、此商ひ毎日六七貫ぐらゐ、又は人のさかりける時は十四五貫文も取る、しかるに、此悴廿歳をかしらとして、十二、十三なると、都合男の子ども三人溺死せし、親のこゝろはいか計かなしかりけん、(九月十八日、白木や十兵衛の談、此てんぷらやは金剛寺坂孫兵衛悴、住吉町伊勢屋半兵衛と云ものゝ向にみ世を出しけるよし)

 その低級な屋台見世のてんぷらもだんだん高級化したようである。

文化の初ごろ、深川六間堀に松が鮓とて出き行はれて、世上の鮓一変しぬ。そのすこしまへつかた、日本橋南づめに、やたいみせ出して吉兵衛といへるもの、よき魚共を油あげにして売しに、是又行はれて、好事の者は、それが住る木原店の家に行て、食ものも有しとぞ。是より処々のてんぷら一変したり。但し食物次第に奢れる也。(喜多村筠庭『嬉遊笑覧』)

 しかし御座敷てんぷらになったのは明治以降のようである。

東京のてんぷら屋での老舗である港区新橋一ー七ー一一の橋善が、現在地に本格的な店を持ったのが慶応元年(一八六五)であり、天保二年(一八三一)の創業時からそれまでは屋台店だったというのだから、てんぷら屋という店の構造、そして、料理内容は、近代にはいって急成長を遂げたものと言うべきだろう。(興津要『江戸食べもの誌』)

 しかしながら江戸時代のてんぷらは屋台見世ばかりではない。二汁五菜の料理に入るてんぷらもあった。『昔唄今物語』の三十年以上前の寛延元年刊『料理 歌仙の組糸』は「一月三度の献立は二汁五菜を元として二汁七斉のさい数を組合せたる料理の糸筋巻返し」て一年で三十六の献立になるところから歌仙と名付けられているが、そこにてんぷらが載っている。また享和元年1801序の『料理早指南』初編は「本膳汁の部」から始まる献立集であるが、即席料理の部に小鯛と鰹の「てんふら」がある。同書第二編には船遊びの重詰(上中下)の上の部の初重七種のなかに「をらんだてんぷら」がある。したがってかなり本格的な料理にもてんぷらがあって、屋台見世の低級なものだけではなかった。ただこれらのてんぷらが同様のものだったのか、別物だったのかは不明である。

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