落語大好き

アクセスカウンタ

zoom RSS 落語の中の言葉109「笑い」

<<   作成日時 : 2013/12/30 20:05   >>

ブログ気持玉 0 / トラックバック 0 / コメント 0

          三代目 桂 米朝「三枚起請」より

 米朝師匠は咄の枕で昔の武士の借金証文に、もし返済しなかったならば「人中でお笑いくだされても構わず」というものがあったといって、「噺家はよろこんで、なんぼでも書きまっしゃろ」と話している。本当にそんな証文があったのだろうかと思っていたところ、どうやらあったらしい。根岸肥前守が書き留めた『耳囊』巻之八に次のような話が載っている。
 近き頃御役家に勤めし者、古へ福島家へ仕へし者の子孫にも有〔ある〕や、立花家にて福島正則の金子借受〔かりうけ〕候証文所持せしが、立花家へ差出謝礼申請て右家へ証文は返しぬる由。右証文をまのあたり見たりしといふ者の語りける。「 無 拠 〔よんどころなき〕義にて金子借用致し候。いつの頃には急度〔きっと〕返済可致候。若〔もし〕違約いたし返済不致候はゞ御笑ひ可被成候」との文言也。古への武士は義気もつよく、笑われ候は何にも不替〔かえざる〕恥とおもひけるや。右証文所持せしもの、名前までも聞しが忘れたり。

 笑いには落語を聞いて笑うのとは別のものがある。「あざ笑う」「笑いものにする」などの笑いで、攻撃性をもったものである。ヒト以外の動物が歯を見せるのは多くは威嚇のためであり、攻撃性の表出である。ヒトだけが攻撃とは全く逆の融和、親和の表情として使っている。思えば不思議なことである。それでも、やはりというべきか攻撃性をもった笑いもある。笑われて「ムッ」とした経験は誰にでもあるのではなかろうか。江戸時代に笑いを攻撃に使った話を二つ紹介しよう。
一、加賀前田家不払いに町人笑う
 江戸時代の初期には大名や役人の屋敷を将軍が訪問する所謂「御成」がしばしば行われた。将軍と親密な関係にある証として有り難く思う一方、費用が大変だったらしい。建物を新たに建てたり改装したりもしたようである。元禄十五年(1702)御成を迎えた加賀前田家では普請その他の代金不払いが起きている。
松平加賀守様御宅へ、御成御普請入目銀・日用銀等、諸職人へ銀子少も御渡し不被成候由。依之其節の日用人共、及度々御断申達候へども不被下置候由。依之加賀守様御門前に其節の日用人共五、六百人太鼓を打参、「日用銀被下置候様に」と申上候由。然処に御屋敷内より人出申候は、「さわがしき。何事か」と申候てしかり候由。其節五、六百人の者共一同に高笑仕候由。其こゑ下谷当り(辺り)迄聞候由。(「世間咄風聞集」元禄十五年)
長谷川強氏は「御成御普請」に「元禄十五年四月二十六日、綱吉が前田邸に行った。この準備・接待で前田家の負った借金は三十六万両という」と注している。

この不払いで倒産したものもあったという。
   本所三文字屋名を失ふ事
本所三文字屋は、御入国以来の分限者磯田三文字屋といふて隠れなし、三文字屋が家は、日本橋本町、大伝馬町、中橋筋、京橋、舟町、小網町七十三ヶ所、いづれも大屋敷なり、目印に壁は何方も鼠なり、比三文字屋、本郷加賀守様へ常憲様御成遊さるべきよし、御殿建、則三文字屋諸式請負ける、加賀屋敷より金子払ひ一切無之ゆへ、百三拾五万両損じ、家屋敷残らず売払ひ、今は本所の末に名跡有り、
 右御殿、御成なくして、地震、火事に残らず焼失す、江戸中、比時たふるゝ者多し、(『江戸真砂六十帖』)

ここには「御成なくして」とあるが、御成は行われている。

(元禄十五年四月)廿六日加賀守綱紀がもとに始てならせ給ふにより。綱紀つとめて御迎にまうのぼり。奏者番に謁して退く。予参は松平美濃守吉保。阿部豊後守正武。土屋相摸守政直。秋元但馬守喬知。稲葉丹後守正往。松平左京大夫輝貞。少老加藤越中守明英。御側青山伊賀守秘成。大久保長門守教寛。大目付。目付。使番。納戸頭。腰物奉行。御膳奉行。進物番。賄頭。台所頭。奥右筆等なり。大廣間より御乗物奉る。供奉は少老稲垣對馬守重富。本多伯耆守正永。御側島田丹後守利由。安藤出雲守信富。両番頭。目付。徒頭。小十人頭。中奥。近習の輩多くつきそひ奉る。(『常憲院殿御実紀巻四十五』)
大変な人数である。賜物も多く綱紀本人には「備前国宗の御太刀。銀三千枚。時服百。繻珍百巻。天鵞絨五十巻。御盃のとき。島津正宗の御刀。吉光の御さしぞへ」。そのほかその家族・一門・家司・家司並の輩等へもある。献物もまた多く、綱紀からは「備前長光の太刀。鞍馬一疋。金三百枚。時服百。緞子五十巻。いろ繻子五十巻。猩々緋三十間。綿五百把。御さかづきのとき郷の刀。新藤五国光のさしぞへ」。そのほかその家族・一門からも献上がある。
「銀三千枚」とあるが、銀一枚は銀四十三匁である。「金三百枚」と「枚」で数えるのは大判である。小判は壱両弐両と数える。
「御成」は秀忠の晩年以降は寵臣の屋敷への遊興的なものが多くなり政治的な意味合いのものは少なくなったという。藤本強氏は『埋もれた江戸』で徳川美術館の佐藤豊三氏の研究によって次のように述べている。
五代将軍の綱吉も「御成」の多い将軍として知られている。将軍在任中の二二年間に一八六回の「御成」をしているが。家光の後期の場合と同様に、そのうち一三八回が譜代の大名であり、やはり柳沢、牧野、松平などの寵臣のところが多数を占めている。外様大名家への「御成」は元禄一五年四月二六日に行なわれた前田綱紀邸への「御成」が唯一のようである。

 明治三十九年前田侯爵から十一世の祖松雲公(綱紀)の伝をつくるよう命ぜられて稿をなした近藤磐雄『加賀松雲公』上巻によると、元禄十四年十二月二十二日に来年御成の内旨を受けた綱紀は居第を移し、その跡地に「御成御殿」を建てる。その御殿は「地積合計八千坪にして。其中建築物の占むるもの約三千坪。家屋の棟数は計四十八棟なりという」。二月四日斧初の式、四月十一日殿閣竣成と短期間に多人数を投入しての突貫工事だったらしい。「其結構並に壮麗を窮極し。為に金を費すこと数十万両に至れり。蓋し僅々両月の間に。府下及近国の工匠等を糾合し。昼夜の程を兼ねて之を経営せられしが故。費額の巨大なること。実に想像するに余あり。」建築に要した材木の代金だけで十七万両という。
「之が為め前田氏の財政は甚しく衰絀し。新に数万貫目の負債を生ずるに至りたり。是に於て。公一大節約を断行し。幕府の進献諸家の贈遺等。一切之を停廃し。十数年を経て能く之を回復せられたり。」という。
御成に随う人数も膨大なため
御成御殿の面積は六千畳を算せしも。上記多数の人員は。固より之を容るゝを得ず。故に公之を数団に分ち。御成御殿には。老中乃至近侍の士千五百余人を延き。其余陪駕の諸侯並に両番頭以下に至ては。之を居第の各室に分饗し。尚ほ余れるものは藩士の寓舎等に延き。同心以下従隷等の為めには。諸処に仮屋を設けらるゝに及びたり。

という。饗応のため出された食事も御成当日の分だけで
  御成御殿之分  千五百八十人
  御居宅之分   朝之分 千七百五十人 
        夕之分 四千人(この内二千人は御道具送り幷供の中間で一汁三菜)

そして、すぐに払われなかった職人の賃銀や材木代等は、数年間の年賦で支払われたようである。
この御成御殿は『江戸真砂』にある通り、翌元禄十六年十二月二十三日の大地震と六日後の二十九日、水戸邸から出た大火により灰燼に帰した。因みにこの火事は「水戸様火事」と呼ばれ、江戸十大大火事の一つである。

二、千葉笑い
画像
 下総の国千葉郡千葉寺(浄土)には、毎年極月晦日の夜諸人堂内に集合し、顔面を隠し頭をつゝみ声替て思ひ思ひに、所の奉行代官大庄屋年寄の依怙贔屓のよしあし我意物欲等を大音に判談し、笑ひて褒美するあり、譏るもありていひ止時、又かたはらより行跡あしき人、主親へ忠孝ならざるものを批判してどっと笑えば、又此方より不貞心の女房娘は勿論、下女小婢〔コメラウ〕にいたるまで身持のよしあしを吹聴してどっと笑ひて、寅の刻まで誰いふとは知ざれど、交る交るに一村人を明細に評判し、各どつと笑つて退散せり、これによつて諸役人より下男下女まで、此笑ひに逢じと互に自今をつゝしみ身を嗜むとなん、天人を以ていはしむるの戒自然よき教訓也、これを千葉わらひといえり、江戸も願はくは是に傚ひてその土地土地の産宮〔イブスナ〕の社寺院へ集会し、支配の役人頭人總て近隣男女の噂して交る交る笑ひなば、自然と実体に押移らんかし、
(以下火付盗賊改およびその配下の与力同心等の不正を述べ)
その外五奉行の役人御代官の手附の人々、總ての頭人名主家ぬしにいたるまで、千葉のわらひに傚はゞ、自然と孝貞忠信を専らにせんかと思ふのみ、千葉わらひの一件は、千葉郡須賀村の人の直に噺せしを聞しまゝ、勧善懲悪のために孫兒へ書伝ふるもの也、(十方庵『遊歴雑記』五編巻の下 文政十二年(1829))
「千葉笑い」は2010年12月31日に復活されたという。ただ詳しい内容は知らない。武器としての笑いとして復活されたのであろうか。

 上は千葉寺境内にある立て札

テーマ

関連テーマ 一覧


月別リンク

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!
ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。
→ログインへ

コメント(0件)

内 容 ニックネーム/日時

コメントする help

ニックネーム
本 文
落語の中の言葉109「笑い」 落語大好き/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる