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zoom RSS 落語の中の言葉173「豆腐」

<<   作成日時 : 2017/10/31 20:46   >>

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          十代目柳家小三治「甲府い」より

 この噺は豆腐屋が舞台である。江戸の豆腐は上方のものとは少し違ってたらしい。喜田川守貞は上方と江戸を比較して次のように述べている。
 今制、京坂、柔らかにて色白く味美なり。江戸、剛(こわ)くして色潔白ならず、味劣れり。しかも京坂に絹漉(きぬごし)豆腐と云ふは、特に柔らかにて同価なり。きぬごしにあらざるも、持ち運びには器中水を蓄へ、浮かべて振らざるやうに携へざれば、忽ち壊れ損ず。江戸は水なくても崩るゝこと稀なり。また江戸にも汲(くみ)豆腐と云ふは柔らかなり。京坂普通製に似たり。けだしきぬごし常にこれあり。くみ豆腐、別製なり。需(もとめ)あればこれを製す。(『守貞謾稿』後集巻之一)

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   左『守貞謾稿』巻之六、右『江戸名所図会』巻之一「藍染川」より
 豆腐売り 三都とも扮異なく、桶制小異あり。
 京坂豆腐一価十二文、半挺六文、半挺以上を売る。焼豆腐・油あげとうふともに各二文。江戸は豆腐一価五十余文より六十文に至り、豆価の貴賤に応ず。半挺あるひは四半挺以上を売る。価半価・四分一価なり。焼豆腐・油揚豆腐各五文。けだし京坂豆腐小形、江戸大形にて価相当す。また京都にては半挺を売らす、一挺以上を売る。
 因みに記す、天保十三年二月晦日、江戸の市中に令す。江戸箔屋町豆腐屋与八、豆腐価廉に売る故に官よりこれを賞す。古来、豆腐筥制、竪一尺八寸・横九寸なるをもってこれを製す。これを十あるひは十一に斬り分けて一挺と号(なづ)けるを例とす。与八のみこれを九挺に斬りて価五十二文に売る。他よりは四文廉なり、云々。当時価五十六文にて、与八のみ形大にして五十二文に売る故にこれを賞す。(『守貞謾稿』巻之六)

 この時は他の豆腐屋も与八と同じ値段にするよう命ぜられている。
         箔屋町
                   嘉兵衛店
                     与  八
此者儀豆腐致渡世候処、近来豆腐屋共儀、豆直段相場不拘、銘々勝手次第之箱を以、水豆腐を十挺又は十一挺ニ切割、焼豆腐油揚之儀も右ニ準し、且代銭も豆腐壱挺ニ付六拾文、焼豆腐油揚は五文ニ売出候処、今般諸色直段調有之旨承り、元形ニ立戻直段等引下ケ申度存意ニ有之候処、下直ニ相成候而は外豆腐屋共差障候故、迷惑いたし候趣風聞相聞候間、呼出候而相糺候処、水豆腐之儀は古来は竪壱尺八寸ニ横六寸之箱ニ而豆腐を九挺ニ切割、壱挺ニ付代銭五拾六文、焼豆腐之儀は一挺之豆腐を百弐拾六ニ切割、壱ツニ付代銭四文、油揚之義は壱挺を数廿弐(六カ)ニいたし、是又代銭五文宛売候処、水豆腐之儀は壱丁ニ付代銭五拾弐文、焼とうふは古来之通壱ツニ付四文宛ニ可売出旨申立候ニ付、願之通申付候間、已来差障等申立候者有之候ハヽ、其段訴出候様可致
右之通被仰渡奉畏候、為後日仍如件
  天保十三寅年二月晦日
                箔屋町
                  嘉兵衛店
                         与   八
                  家  主  嘉 兵 衛
                  五人組   重   助
                  名主又兵衛煩ニ付
                  代      久   蔵
               諸色取調掛
                牛込改代町
                  名  主   三 九 郎
                芝松本町
                  同      清左衛門
右之通今日拙者共御用伺ニ罷出候処、前書与八儀豆腐直下ヶ奉願候処、御糺之上願之通被仰付候ニ付、外豆腐屋共も右直段ニ一同直下ヶいたし候様、組々江可申通旨、稲沢弥一兵衛殿被仰渡候間、早々行届候様御組合限御通達可被成候、右御達申候、以上
  二月晦日
                石塚三九郎
                浦口清左衛門 (『江戸町触集成』第十四巻)

 江戸幕府は買い占め・売り惜しみ等原料の価格や需給関係に関わらない値上げや価格高止まりについては微々たる品であっても看過せずに価格統制に乗り出している。この点について三田村鳶魚氏は例の分かりにくい表現で次のように述べている。
 奸商取締りの法令、これは物価調節というよりも物価抑損である。通貨に異状のあった場合、現在のごとき通貨の膨脹よりくる物価騰貴、すなわち、通貨と物資との平準、膨脹と騰貴とを見比べて考え得られる相場ならば、議論も干渉もあったものではない。また、物資相互の権衡、今まで概率の下に高低していたものが、某々の種目のみ飛躍した値段を現してくる。しかも、需要、供給の度合を忘れて驀進する。これも、需給の差隔に沿うておれば、問題にはならぬ。通貨との関係も忘れ、需給の差等も知らない市場、勿論、一般の物価と離れた値段が出ると、江戸時代には物価抑損令を出した。天保には、諸色相場二割下げを命令した例もあるが、この時は、商業各組合全体の奸曲を懲戒するためにしたので、意味も、しばしば発せられた物価抑損令よりも大きく、事例としても特殊であった。元来、物価抑損令は、占買(しめがい)・占売(しめうり)によって、壟断(ろうだん)の利を得んとする者を処分し、一時を救解する方略なので、決して調節などという平穏な趣旨ではない。荒い療治の方である。

 そして豆腐に関して次のように述べている。
また、興味のあるのは、宝永三年五月の豆腐屋事件である。宝永元年の大豆相場は、一両に八斗五升であった。当年は一石二升に下っているのに、町々の豆腐の値段は、元年と同様であるのは何の理由であるかと、南伝馬町・南塗師町・本町・神田多町・新石町の当業者へ尋ね、豆腐の値段を引き下げられぬ理由を、書面にして出させた。ところが、その理由が認められない。殊に、豆腐製造に必要な苦塩(にがしお)・油糟の相場を偽っておったから、重立った七人を逼塞させた。そこで豆腐屋一同は、早速値下げをして、処分を脱がれた。豆腐相場などは、往々にして軽視されそうである。けれども、幕府は、微物といえども、暴利を占断して、些少でも生活を圧迫すれば、寛仮しない。

 その後もしばしば豆腐の値段は問題視されている。

 ところで守貞謾稿には、京坂では豆腐一挺十二文であるのに対して江戸は一挺五十文から六十文と高いが大きいためで値段は大きさに見合っているという。天保の改革時に豆腐も値下げするよう命ぜられたが、その際品質を落としたり小さくしたりしないよう一挺の大きさを統一した。天保十三年五月以来 豆腐四十八文、油揚五文、焼豆腐四文のところ大豆の値が上がり、引合兼るため願い出て、天保十四年二月値上げを認められた。その際に、豆腐仕込箱の大きさと切り分け方が決められた。

「天保十四卯年1843」
先月廿三日町々豆腐屋重立候者共、南御番所江被召出、委細取締方被仰渡御請書差上候上は、豆腐仕込箱幷裁切寸法等早々相直、銘々見世先江右寸尺直段張出置可申処、未間無之故、不行届之向も有之哉ニ付急度為相改、万一等閑置如何之取計致候者於有之は、御取調之上無用捨名前申立候様被仰渡候間、猶又御支配限当人共江情々御申渡、各様ニも別而御心付、早々御改置可被成候、尤不時ニ品御買上又は箱寸法等御改之儀も有之候由、其節如何之儀有之候ハヽ町役人共迄厳重之御沙汰可有之旨、是又被仰渡候間、此段御達申候、以上
   卯三月朔日         組合取締掛
右御達申候、御支配町々豆腐屋江即刻可申渡、左之張出書早々行届候様御取計可被成候、以上
   卯三月三日       八番組
                   諸色掛り
     寸尺直段
一豆腐箱寸法
    内法    竪  七寸
           横  壱尺八寸
           幅  六寸
一豆腐寸法  壱挺 代五十弐文
           竪  七寸
           幅  六寸
           厚  二寸
一油揚寸法  一ッ  代五文
           竪  三寸五分
           幅  二寸
           厚サ 六分六厘
一焼豆腐寸法 一ッ  代五文
           竪  三寸五分
           幅  二寸
           厚  一寸
  〆
   二月   (『江戸町触集成』第十四巻)

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 江戸の豆腐は大変大きく、一方焼き豆腐と生揚げは小さい。豆腐は焼き豆腐の十二倍、生揚げの十六倍の大きさである。それで四半挺(小半挺)から売った。豆乳の濃さには違いがあり、焼き豆腐と生揚げを作る豆乳は普通の豆腐用の豆乳より少し濃い。豆腐箱一杯に必要な大豆の量は、普通の豆腐が四升であるのに対し、焼き豆腐・生揚げ用の場合は四升八合である。

 この噺に天秤棒で売りに出るところがあるが、天保の改革で株仲間が廃止されるまでは、豆腐屋も店ごとに販売圏が組合によって決められており、他の店の商圏へ売りに行くことは出来なかった。一旦廃止された組合が嘉永四年1851三月再び許可されるが、単なる同業組合であって、新規開業も自由で商圏の限定は認められていない。この点でのトラブルもあった。山室恭子氏の『大江戸商い白書』に詳しい。

 また豆腐の耳に紅葉の印を付けていたようである。
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      『誹風たねふくべ』初集 天保十五年(弘化元年)1844
   豆腐の紅葉(もみぢ)
〔堺鑑〕〔割註〕天和三年1683印本。」下之巻に、「紅葉豆腐の事、何国(いづく)にも豆腐はあれども、別して当津のを勝たりと古人より云伝り。紅葉と云名を加たることは、堺の桜鯛にもおとらぬ味なればとてかくいへるとぞ。花に対する紅葉(もみぢ)の縁なるべし。又或人の云、此豆腐を人のかふやうにと祝て付たる名ともいへり。買様と紅葉(こうえふ)と音便(おんびん)成ゆゑ歟。今豆腐の上に紅葉(もみぢ)を印す。詞に就て形を 顕 (あらはす)なるべし。買用も通てよし。」かゝれば今豆腐に紅葉の形を印する事、堺の紅葉豆腐に始れるなり。紅葉を買様に取なすは幼気(をさなげ)なれど、昔は此類おほかり。これいはゆる名 詮(みやうせん)にてとなへのよきをもて祝とするなり。
 ○因に云、古老の説に南天といふ木は、本名南天燭(なんてんしよく)なり。手水鉢(てふづばち)の下に植(うゑ)、食物のかいしきなどにするは、諸毒を解する為なり。鏡の下に敷、又は裏に鋳付(いつけ)などするは、南天を難転に取なして、難を転ずるといふ意にてする禁厭(まじなひ)なりといへり。紅葉(こうえふ)を買様(かふやふ)に取なすも此たぐひなるべし。能の狂言鱸(すゞき)庖丁といふに、深草の土器(かはらけ)になんてんぢくのかひしきをするといふ事あり。前にもいふごとく能の狂言は古きことなり。(山東京伝『骨董集』文化十年1813成)

山崎美成も『麓の花』(文政二年1819序)で『堺鑑』の記述を挙げた上で、
江戸にて紅葉を印するも、いとふるくよりなすわざなり、そは「俳諧当世男(延宝四年1676印本)巻の上、紅葉といへる題にて、
  朔風や紅葉をさそふ豆腐箱      重 秀
と見へたるにて、延宝の頃、已に江戸にあるを見るべし、

と述べ、「きのふはけふの物語」巻の上にある、お茶を「もみぢにたてゝまいらせよ」の例を引いて、「紅葉を濃能(コウヨウ)といへるに、音便もてかよはせたる事のあれば、「堺鑑」の説も音便の説に従ふべし、」としている。

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