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zoom RSS 落語の中の言葉183「朝顔や釣瓶とられて貰い水」

<<   作成日時 : 2018/06/30 21:36   >>

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          三代目桂三木助「加賀の千代」より

 甚兵衛さんは他人(ひと)よりいい腕を持ちながらなまけていて年越しに困り、女房から隠居さんのところへ金を借りに行くように云われる。度々だから貸してくれないと云うと、隠居さんはお前がかわいくってしょうがないんだから貸してくれるという。子でも孫でもないものが可愛いものかと云うと、気性さえ合えば他人でも引き立てても可愛がってもくれる、朝顔だって可愛がる人があると云って、加賀の千代の話をする。その時に「朝顔釣瓶とられて貰い水」、「朝顔釣瓶とられて貰い水」という人もあるけれど本当は「朝顔や釣瓶とられて貰い水」だと咄している。
 「朝顔に」はよく聞くが「朝顔や」はあまり聞いたことがない。云われてみれば「朝顔に釣瓶とられて」はわかりやすいけれど、俳句らしくない。そこで尾形仂 編『新編 俳句の解釈と鑑賞事典』を見ると
   朝顔釣瓶とられて貰ひ水  千代尼句集
とあり、
《鑑賞》女性の花に対する優しさを詠んだ句として、素直に読み取りたいのだが、やはり定説どおり風流の押し売りに感じられる。上島鬼貫の〈行水の捨てどころなき虫の声〉と似る風流のてらいである。こうしたものが、のちの天保の月並調の流れの源泉ともいえよう。
真蹟類には「朝顔や」の句型がある。この型をとれば、句切れは「朝顔や」、切れ字は「や」である。しかし「朝顔や」とすると、釣瓶を何がとるのか判然とせず困る。

ともある。俳句のことはよくわからないが、「朝顔や」でも、十分意は通じる。単なる日本語の文章としては「朝顔に釣瓶とられて」であるが俳句としてはふさわしくないように思う。例えば芭蕉の有名な句「古池蛙飛び込む水の音」も単なる文章としては「古池蛙飛び込む」である。しかし「古池に」では俳句にならないのではなかろうか。やはり、本当は「朝顔や」であるという方に賛成したい。
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      酒井抱一の俳画集「柳花帖」(文政二年1819跋)より

  ところで俳句でもう一つ、気になるものがある。其角の雨乞いの句である。伝説化していていろいろ云われている。

○菊岡沾凉『江戸砂子』巻之六(享保十七年1732刊)
 三囲稲荷社 別当三囲山真珠院延命寺兼帯 小梅。
(中略)
 △元禄の頃、宝井其角と云誹諧の宗匠、遊船にいざなはれ、此川ぎしに至る。于時太鼓・鉦を以当社騒噪す。ゆへを問ふに此ほどの旱魃にて雨を祈ると云。同船の連、其角に対して曰、和歌を以雨を祈るためしあり、誹諧の妙句を以て雨ふらせたまへとのゝめきければ、其角ふと肝にこたへ、一大事の申事哉と正色赤眼心をとぢて、
   夕立や田も(ママ)見めくりの神ならは        其角
と書て、社頭に納む。神も納受ありて一天俄に曇り、人々楼船(やかた)にかへらざるうち、雨車軸を降ス。是世に知る所也。

○伊東蘭洲『墨水消夏録』(文化二年1805自序)
元禄六年癸酉1693六月、大旱して田畑一滴の湿なく、田地亀背の如くさけ、農民これを歎き、雨乞のまつりすれども、其応あることなし、廿八日、霊岸島の白雲といふ老人、宝井其角をともなひて、舟にのりいでゝ、舟を土手につなぎ、三囲に遊しに、かね、太鼓を打ならし、農民の雨乞せるさまを見て、白雲これに戯ていふは、此人は日本俳諧の達人なり、むかし、小町、能因などの雨乞せしためしもあれば、この人をたのみて雨ごひせば、其応あらん、といふにより、農民、其角をとりまき、ぜひあまごひしてたべ、といふに、其角もやむ事を得ず、手あらひ、口そゝぎ、神前に向ひ拝て、ユタカの字を折句にして、
   夕立や田をみめぐりの神ならば
それより夕方に向ひて、筑波より雷なりいだし、其雨盆を覆すがごとしといふ、此句、其角が真跡今尚あり、(以下略)

○桃花園三千麿『萍花漫筆』(天保頃か?)
俳諧師其角三囲の社へ雨乞の句を奉納せしこと、種々の説区々(まちまち)なり。延宝乙卯1675のとし、大いに旱(ひでり)せし頃、其角、長游の二人、紀伊国屋文左衛門にさそはれて、八町堀より船にのり、吉原に赴く折から、駒形堂のうしろあたり迄来るに、小梅村の辺にあたりて、鉦太鼓の音おびたゞしく聞へてければ、人々何の祭りにや有らんといふにぞ、長游答て、あれは此程の日でりに田へ水を乞はんとて、農人たちの稲荷へ雨乞するなり。けふにてはや七日余りも、かくは騒ぐなりといふに、文左衛門は其角にむかひ、いかに宗匠、俳諧はもと和歌より出て、言の葉の道、歌に異なる事はなし、さあるに、いにしへより小町、能因は、和歌の徳をもて雨を降らせし例をきけども、われいまだ発句を吟じて、村雨のふりたる咄は聞かず。今民のかく旱になやめるを見て、共に憂ざるは風雅の客にあらず。いでや我俳諧にも神あらば、一粒たりとも雨をふらせたまへや。是は唯天下の黎民が為なり。文左が心にてはあらざるなりと興ずるてい、いかにも又、けしきばみたるていにも見ゆるを、其角はたゞ聞よりもうなづきて居たりしが、酒をもたふべず、物をもくはで、それより後はうつぶしにふしてけり。かくて云けるやうは、人々はいざ、われは少し心地あしく成つれば、これより家に戻りたしといふに、文左衛門はよしなきこと云出て、其角にはらたゝせたりと思ひ、いなとよ宗匠戻りたまはゞ、共に戻るべしとて、船を大川のわたしより跡へ漕もどしぬ。それよりすでに両国のあたり迄来しと思へるころ、俄に雨雲空を覆ひて、吹出る風につれ大雨盆を傾るがごとく、いともしきりて降ければ、其角は船中に起直り、只今迄も色青ざめてうちふしたるが、扇を持て船ばたを敲き、何やら小唄をうたひつゝ、いざいざ是より廓へゆくべし。船頭、ふねを押もどせとて、小躍してぞいさみける。文左衛門も雨の祝ひなりとて、又も船を山谷堀へいそがするに、其角はまづ三囲の社へ詣たまへとて、稲荷へ詣で法楽を奉り、ゆたかの折句をさゝげて、其夜は吉原へと赴たり。されども此頃、其角に雨乞の句ありといふことは、誰もしるものなし。其の後、文左衛門の其角に問けるは、いつぞや雨乞の句の時、宗匠船にて色の青ざめたるは、実に不快にておはせしにやと云に、其角は笑て左にはあらず。あの日は命をひろひ侍るなりといふに、それは又何様の事なるぞと問ふ。又答て云は、昔小野の小町はかしこき詔(みことのり)をうけて、神泉苑に雨を祈れるとて、
    千刄破る神も見まさは立さわき天の川戸(ママ)の樋口あけたまへ
と詠て、雨をふらせり。其後、能因法師も。
    天の川苗代水にせきくたせあまくたります神ならは神
と詠て、又雨をふらせり。我思ふに、かゝる歌をよみたりとて、いかでか雨のふるべきや。歌にもあれ句にもあれ。わが心に徹する事なければ、天も地も感応する事なし、其心に徹するは誠一ッなり。小町若(もし)此うたを詠じて雨ふらずんば、身を以て神に贄(にえ)となし、諸民の為に命を神泉苑にすてんとなり。能因が心も是と同じ。我も又、彼の時雨ふらずんば、川へ身を投、骸(かばね)を以て水神の贄となさんと、心底の覚悟面色にはやあらはれしと見へて、御許にも我帰らんといふ機に随ひたまへり。たゞ命すてんと思ふほどの誠にあらざれば、天地を動かし鬼神を感ぜしむる事あるべからずと語りけり。是よりして雨乞の句を世上に知りて、其角がふらせし雨なりとは、今の世迄も云伝へたり。

 其角のこの雨乞の句を、山東京伝も『近世奇跡考』(文化元年1804)で採り上げている。
   其角雨乞の句考
其角牛島にて、雨乞する者にかはりて、
〔五元集〕 夕立や田をみめぐりの神ならば
とせしは、いづれの日にや。 詳ならざるによりて、予三囲の社主につきてたづねしに、元禄六年1693六月廿八日の事とぞ。然 (しかれば) 則 (すなはち)其角三十三歳の時なり。一説に、南茅場町、回船問屋某(それがし),
俳名を白雲 其角門人 と いふ人にいざなはれ、船あそびに出て、此事ありしとぞ。案るに、能因(のういん)法師雨乞の歌に、〔金葉〕
    銀河(あまのがは)なはしろ水にせきくだせ天くだります神ならば神
此歌にもとづきたる句なり。〔五元集〕に、翌日雨ふるとあるを以て、須臾(しゆゆ)にふりしと云説を、日ごろい ぶかりおもひけるに、元禄六年に生れたる隠士〔挙一堂之記〕〔割註〕詞花堂蔵写本。」を見るに、左のごとき文あり。
晋其角、ある年門人と船を同じうして隅田川に遊ぶ。今茲天下旱魃して田面水無し。門人等雨乞の句を望む。晋、辞すれども止まず、故に句を作る。須臾にして雨降る。世人その俳徳を感ず。云々。(引用者註:原漢文)
此記露ばかりも、いつはりがましき事をかきたるものにあらず。於此おもへば、元禄中の人、すでに此事を伝へて、風流の話柄(わへい)としたるを、挙一堂(きよいつだう)しるしおきたるならじ。雨の降しはいづれの日にもあれ。世こぞりて此事を語り伝ふるは、其角がほまれといふべし。〔割註〕かの句はもと、ユタカといふ折句なり。ひそかに豊作の意(こころ)を以て祝したらんと、著作堂主人いへり。」
   引用者註:「著作堂主人」とは曲亭馬琴のこと。

 ところが十方庵敬順は『遊歴雑記初編』(文化十一年1814)で次のように云う。
一、三囲の稲荷は、牛の御前より南の方弐町にあり、田中の宮とも称す、蓋堤の下耕地の中央にあるがゆへ也、(中略)
一、中古宝晋斎宝井其角が、雨乞する人に代りて舟中の吟に、
     夕たてや田をみめぐりの神ならば
といひし秀句に神も感応やしけん、雨ふりけるとなん、是より追々稲荷の霊験も聞つたへ、宮・かぐら堂・絵馬殿・別当処、西南の両門・花表(とりい)をはじめ、やしろの荘厳悉く成就し、今は宮居の様壮麗となりて、其角も風流に名誉をつたへて、後世の今江戸座と称する一風ぞ残れり、是いなりの神・晋子もろともに、凡聖ふたつながら幸福を得たりといはん歟(か)、予案ずるに、彼雨乞の句のもとづく処は、小野の小町が詠に、
     あまの川苗代水にせきくだせ雨くだります神ならば神
といえる古哥をふまえて口ずさみしと見えたり、暫時の才智賞すべし、是より俳匠等此稲荷を一筋に雨乞の神ぞと思えるも可笑、その人の徳にもよるべく、心魂を込し句体にもよるなるべし、(後略)

十方庵が「夕たてや」といっているのは何に拠っているのであろうか。其角の句碑については触れていないので句碑を見て「夕たてや」と書いているのかどうかはわからない。
また「天の川」の歌を小野の小町が詠というのは十方庵の誤りで能因法師の詠である。小町の歌は

小野小町雩(あまごひ)の歌、家集にあり。
  千早振神もいまさばたちさわぎ天の川戸(ママ)のひぐちあけたまえ
さりとてはまた天が下の歌ばかり世につたへて、此歌をしる人すくなし。(鈴木忠侯 集撰『一挙博覧』)
「さりとてはまた天が下の歌」とあるのは
  ことはりや日の本ならば照りもせめ さりとてはまた天が下とは
をさす。
小町の雨乞いの歌も有名で其角の句と対比した川柳も詠まれている。
  三めくりの雨は小町を十四引  誹風柳多留二篇(明和四年1767刊)
  男十七女は三十一        誹風柳多留十五篇(安永九年1780刊)
    其角は俳句で十七文字、小町は和歌で三十一文字。
  雨乞も女はたんと口をきゝ    誹風柳多留六篇(明和八年1771刊)
  十徳と十二ひとへでいいしめり 誹風柳多留四十四篇(文化五年1808刊)

 ところで、其角の句にある「夕立や」(五元集・江戸砂子・墨水消夏録等)は「ゆふだちや」なのか、それとも「ゆふたてや」と読むのであろうか。 
『角川古語辞典』には、ゆふだち「夕立」の項目は無く、自動詞の「ゆふだつ」がある。
ゆふだつ【夕立つ】自タ四 @風・雨・雲・波などが夕方に起こり立つ。「緑の木々を吹きかへし夕だつ風の袖に涼しき」〔玉葉・夏〕A夕立が降る。夏「朝露に濡れにし袖を乾すほどにやがて夕立つわが袂かな」〔山家集〕

 雨乞いで雨よ降れと祈るのであるから「ゆふだつ」の連用形「ゆふたち」ではなく、命令形「ゆふだて」と読む方がよいのではないかと思うのであるが、現在三囲神社にある石碑には変体仮名で「ゆふたちや」と彫られている。ただこの碑は明治六年1873に再建されたもの(最初に建てられてから96年後)である。また最初に建てられたのも其角が詠んだ元禄六年1693から八四年後の安永六年1777であり、それが『墨田区古文書集成U』では「行方不明」、現在の碑の説明板では「摩滅した」ために再建されたという。現在の碑は建てられてから140年以上経つが十分読める状態である。
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 ちなみに三囲稲荷にある其角の句碑説明板は次の通り。
(墨田区登録文化財)
 宝井其角「ゆふたちや」の句碑(雨乞の碑)
     所在 墨田区向島二丁目五番十七号 三囲神社内
 元禄六年(一六九三)は大変な干ばつで、秋の収穫を心配して困りきった小梅村の人々は三囲神社に集まり、鉦や太鼓を打ち雨乞いをしていました。ちょうど三囲神社に詣でた俳人其角が、このありさまをみて、能因法師などの雨乞の故事にならい「遊ふた地や田を見めぐりの神ならば」と詠んだのです。この話は其角自選句集の『五元集』にも「うたえば翌日雨降る」と記されているように、早速効果があったと伝えられています。
 其角は寛文元年(一六六一)江戸に生まれ、姓を榎本、のちに宝井と称し、芭蕉門下第一の高弟として知られ、とくに洒落風の句を得意としました。この碑は安永六年(一七七七)に建立されたものが摩滅したので、明治六年(一八七三)に再建されたものです。

平成十八年十二月
               墨田区教育委員会

 其角が奉納したものにどう書かれていたのか知りたいところであるが、三囲稲荷には歴史資料はほとんど存在していないという。昭和六三年墨田区教育委員会発行の『墨田区古文書集成U ー三囲神社関係文書ー』の資料概説は次のように述べている。
 現在、三囲神社には残念ながら歴史資料が伝存していない。止むなく三囲神社と密接な関係をもっていた三井家の資料を一括して所蔵する三井文庫に調査に入り、これに関係する文献資料を目録からリスト・アップした。今回資料集として刊行する運びとなった「三囲神社関係文書」はこのような経緯から、三井文庫所蔵資料(五六点)を基礎とし、その他三囲神社について種々触れている地誌、見聞集、随筆などの諸資料をもとめて、都立中央図書館、国立国会図書館、国立公文書館、東京大学史料編纂所の各機関に赴き、後半に収録した各資料を確認・収集した。

 また同古文書集成には原得斎の「墨水志」が収載されており、そこには山東京伝の『近世奇跡考』を引用した後に次のように書かれている。
又或説に、其角雨乞の為に此社に詣、ゆう立(タテ)や田をみめくりのかミならハ、と詠し、奉納して、扨舟にのほり帰るに、いまた両国橋まて来らさるに大雨降りけれハ、又其時に、ゆふたちや田をみめくりの神なれハ、と詠しなほしけるよし、余、近頃、備忘録と題せる小冊子、何人の筆記にやしらす、余実父理斎君ある骨董店より求め給ふを見るに(柳村と云処に牛の病て死ぬる事多かりしに、読て柳の神に祈りける、)近衛殿
    あはれみを垂るゝ柳の神なれは
        しぬるをうしとおもはさらめや
   下総国三廻の社に雨を祈りて
    雨乞や田をみめくりの神なれは
とあり、然れば能々吟味すへし、余、いまだ是非を知らす、此によれハ、近衛殿の句を、ユタカと文字直したるにや。

  「或説」とは何を指すのか不明である。「ゆう立(タテ)や」と書いて奉納し、後に「ゆふたちや」に直したというがなぜ変えたのか、そもそもこの説は信用できるものであろうか。

 曲亭馬琴もこの句について書いていた。
  (七)夕立
元禄六年六月廿八日、其角が三囲の神社祈雨(あまごひ)の発句は、世挙(よこぞつ)て人のしるところなり。其角が自筆の短冊〔割註〕三囲稲荷別当真珠院什物。」幷に五元集にも、夕立やと真名に書たり。よりて世の人これをゆふだちやと読はしかるべからず。
   夕だてやたをみめぐりの神ならば
と読べし。これ読則(とくそく)なり。ある人これを難じて、夕立(ゆうだち)は一句の題なり。題を用にして夕だてやと読む事作例なしといひき。これ亦誤りなり。五元集にこの祷雨(あまごひ)の発句をしるせし三句前に、市中の白雨(ゆふだち)といふ題とありて。
   鳶の香(か)も夕だつかたに腥(なまぐさ)し
といふ句を載たり。これ夕立は題なり。それを用にして夕だつかたと作れるにて。祷雨(あまごひ)の発句も夕だてやと読むをしるべし。祷雨(あまごひ)の古歌に、「天の戸川(ママ)のひくちあけ給へ(小町)と詠み、「苗代水をせきくだせ(能因)と詠みて、みな欲得(ねがひ)の手爾遠葉をもてす。夕だちやと詠ときは、既にその雨の降るをいふべし。かくては祷雨の義に称(かな)はず。(以下略)(『燕石雑志』巻之二 文化六年1809)

  以上によれば三囲稲荷に納めたものも五元集と同じく「夕立や」と漢字で書かれていたようであり、文化頃には現物も三囲稲荷に存在していたようである。其角本人はどうよんだのであろうか。依然として不明である。

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